自分自身のことなのだから、当の「事情」を頭で理解することはできる。自分と主人が、その責任を半々に負っていることも分かっている。けれども、「あともう少し、時を待とう」と言っている間に、容赦なくどんどん過ぎ去ってしまうのが時間というもので、これはひょっとしてアレかも、迷っている間に、その「時」を決定的に逃してしまうのがオチなのかも、という思いが、私の中で危険なほどネガティブに膨らんでしまった時期があった。
あれは悪魔が憑いていたかもなあ、と我ながら思うような最悪の状況だったのだけれど、そんなこんなで数年が過ぎるうちに、逆に心の整理がついてきたから不思議なものだ。35歳からが「高齢出産」というのは、実のところ一つの指標にすぎない。人がいつ死ぬのかは誰にも分からないように、「産む」「生まれる」ということも、自分ひとりの力でコントロールできることではない。もしも時が来れば、自然にそうなるものだし、時がこないと決まったら、その先どうするかをまたゆっくり考えればいい。そのための時間なら、まだまだ十分に残されているじゃないか…なんて考えているうちに、徐々に失われていく「可能性」を思うたびに悩まされていた、あの何ともいえない気持悪さが、少しずつ薄らいできたような気がする。
やや大げさな表現だと思うし、もしかすると不快に感じる人もいるかもしれないけど、こうした心境の変化は、リハビリテーションの分野で言う「障害の受容 (Acceptance of Disability)」のプロセスになぞらえることができるかもしれないと思う。重大な病気や事故を受けた患者は、その直後は「ショック期」にあり、自分の置かれた状況に意外に無関心なのだそうだ。やがて、障害が簡単には治らないことが薄々分かってくると、心理的な防衛反応が生じて、障害を無視しようとする「否認期」が訪れる。けれども、圧倒的な現実を否認し切ることは不可能なので、そのうち内外への怒りが爆発したり、抑うつに満たされたりする「混乱期」に入る。そこから、自立へのニーズが優位に立つ「解決への努力期」へと向かい、一進一退の努力を経て「受容期」へと達したときに、初めて「ふっきれた」と感じるのだという(上田敏『目でみるリハビリテーション医学』より)。
私の場合、事はやっと「解決への努力期」にさしかかったばかりという気がするけれど、そこで大きく役立ってくれているのが、上田紀行さんが書いていた「イメージの力」であるように思うのだ。
イメージが持つ力はとても強い。それは、心と体の間の強いつながりを物語るもので、人間だけではなく、動物や植物にも大きな影響をおよぼす、と上田さんは書いている。
このことを劇的に示すひとつの実験がある。オハイオ州立大学で行われたウサギを使った実験である。
それはコレステロールと動脈硬化の関連についての実験だった。ウサギに脂肪分の多い食物を一定期間与え、その後解剖して動脈硬化の様子が調べられた。ところがそこに説明できない結果が現われた。あるグループのウサギだけがグループ全体より60%も動脈硬化の発生率が少ないのだ。
同じえさを食べているのになぜ60%もの違いが出るのか。その原因を調べていくうちに、そのグループはあるひとりの研究者によってえさを与えられ世話をされていたことがわかった。この研究者はウサギ好きで、実験中にウサギたちに話しかけたり、撫でたりしていたのだった。
この結果は単なる偶然なのだろうか? それを確かめるために今度は組織的に実験が行われた。二つのグループに同じえさを与え、一方のグループのウサギだけ、一日に数回同一の人がかわいがり、話しかけるようにした。そしてその結果は、前と同じくかわいがられたウサギの方が発生率が60%低かったのである。
動脈硬化は食物の中のコレステロール分が動脈に沈着して起こる純粋に「身体」的な病気である。しかし、メカニズム自体は身体的なものであっても、その全体は「心」的な要因によって左右されるのだ。同じコレステロールの量を取っていながら、「孤独」なウサギは動脈硬化になっても愛されているウサギは病気にならないのだ。しかも、この実験の対象はウサギである。ウサギの心に起こったことならば、複雑に心を発達させた人間にはもっと多くのことが起こってもおかしくないと考える方が普通だろう。
1973年、マサチューセッツ州の特別対策委員会がひとつの報告書を提出した。動脈硬化症患者が生き残る可能性についての調査結果だった。その決定要因は何だろうか。驚いたことに、それは喫煙でも、高血圧でも、血中コレステロールのレベルでもなく、「仕事への満足度」だった。そしてそれに次ぐ要因は「総体的な幸福感」だった。(一部中略)
最近、ふとした拍子に、主人が「つるり」と私のお腹を撫でてくれることがある。それは気のせいか、その中にアレが、子宮が眠っているということを改めて意識させてくれるような撫で方で、そのたびに私は、コレステロールにも負けずに長生きするウサギになったみたいな、不思議な気持ちになってしまうのだ。
一時期は、交通事故で片足でも失ったかのように、大層な悲嘆にくれていた私だけれど、考えてみれば、その「失われた足」というのは、何かの拍子にまたひょっと生えてくるかもしれない足なのだ。可能性がどんなに低くても、そうした「まさかの場合」のために、心の準備くらいはしておかなくてはならない。少しずつ、できることから、他ならない自分自身の成長のためにも。
まだ子どもを持たない私にとって、ベビーのイメージは、この世で最もストレートな「再生」のイメージでもある。まさに悪魔祓い、病退散のための「ポジティブなイメージ力」となって、今も私たち一家を支えてくれているのだと思う。









