あまり本筋には関係がないけれど、とても心に残るシーンがあった。ボビーたちに生物を教えているビュート先生が、授業でカエルの解剖をするという場面だ。
先生はカエルの腹部にメスを入れて、小さな肺と心臓を取り出してみせる。「まるで違った生き物なのに、私たちとそっくりでしょう」と先生は言う。「このカエルが失くしたものは何だと思う?」
「命です」
「じゃあ、もしこのカエルが、また命を取り戻したらどうなる?」
「痛さを感じます」
「机から飛んで逃げます」
「心臓がまた動きます」
生徒の一人がそう答えると、先生は細い針金を取り出して、カエルの心臓に押し当てた。そのうち、心臓がぴくっと動く。
「ほら、生き返ったかな、このカエル?」
生徒はみんな首を横にふる。
「そう、これはただのトリックね。じゃあ、このカエルに足りないものは何かしら? いったい何を失くしたの?」
「命です」
「じゃあ、命っていったい何だろう?」
誰も答えられない。
「謎よね。カエルの体を切り開いても、この謎は深まるばかりなの」
最後に、ビュート先生はこう言った。
「宿題はなし。ただ、今見たことを忘れないで」
***
私が中学生だった頃、すでに「カエルの解剖」は生物の授業のカリキュラムからなくなっていた(それは、単に「残酷だから」という理由からではなかったはずだけど)。そのせいか、このシーンを読んだとき、ボビーたちと一緒に、ビュート先生から何か大切なことを教わったような気がした。
眼をつむって、知らないふりをしてやり過ごそうとしても、そうはいかないものもある。死もそうだし、たぶん痛いという感覚もそうだ。
また少年がナイフで誰かを襲った、とニュースが流れるたびに、ある友人は、
「ナイフを普段使ってない子は、自分で怪我したことないから痛みが分かってない。もっと鉛筆削りでもリンゴむきでもさせて、ナイフの怖さを教えた方がいい」
というけれど、ストレートに言えばそういうことかもしれない。
痛みがどんな感覚かを知っておくことはとても大切だ。死とは何なのかを想像することも。そうした直感にうながされて、戦争の話を私たちに語ってくれる人がいる。The Fire-Eaters のような物語を書いてくれる人がいる。アーモンドが、体罰が横行する中学校の中で、ひそかに生徒を思いやる教師としてビュート先生を描いていることにも、何か意味があったのかもしれない。
物語のラスト近く、世界中が核ミサイルへの恐怖に飲み込まれようとしていた夜に、ボビーは最後の「祈り」をノートに書き付ける。それは、自分にとって身近な人の名前、動物や昆虫や植物の名前を、思いつく限りすべて書き並べていくというものだった。
「全部の名前は書ききれないけれど、このすべてをお救いください。どうしてもだれかを召さなくてはならないのなら、このぼくを召してください」
ボビーのこの祈りについて、共感しようとするのはとても難しい。冗談でもこんな祈りをささげる気にはなれない現代の日本で、私は安穏とこの本を読み終えてしまった。
けれど、少なくとも作者は、あの夜のボビーの真摯な思いについて、そのバックグラウンドを交えて想像してみるチャンスを与えてくれている。たとえばボビーは、最後の「祈り」の中のラインナップに、自分たちに鞭をふるったトッド先生の名前も加えていた。猛り立っていた感情の炎も何もかも、すっかり飲み干すようにして。