2006年07月29日

三年寝たろうと母のこと

Book 004.jpg
紙のお月さま紙のお月さま
今江 祥智 長 新太

理論社 1985-11
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あるとき母に誘われて、今江祥智という童話作家の講演会に出かけた。
小学校教諭をしていた母の教育のたまものか、『ポケットにいっぱい』『海いろの部屋』『山のむこうは青い海だった』など、数々の名作に触れながら育った私にとって、今江さんはちょっとしたスターだった。なにしろ子供の頃に好きだった本の作者なのだから、もう相当なお年なのかと予想していたら、思いがけず若々しい印象の朗らかなおじさんが現れて、図書室に勤めながら童話を書き始めたころのエピソードや、「三年寝たろう」的存在の必要性などを語って下さった。

「三年寝たろう」うんぬんについては、うろ覚えの部分もあるのだけれど、確かこんな話だったように記憶している。世の中には、あまり実生活には役に立たないことにばかり関心があって、のほほんと暮らしている人種がいる。けれど、実はそうしたエアポケットのような存在を、社会の方でも必要としているんじゃないか。逆に、そうした「寝たろう」的存在を許せなくなった社会というのは、余裕がなくなって、何だかぎすぎすしてしまうんじゃないか…

ふと横を見ると、楽しげに「うん、うん」うなずきながら、今江さんの話に聞き入っている母がいた。続きを読む
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2006年08月31日

静かな夜明けに火を焚くこと〜五味太郎『絵本をよんでみる』(その1)

絵本をよんでみる絵本をよんでみる
五味 太郎 小野 明

平凡社 1999-08
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気が付くと、ずいぶん辺りが秋めいてきた。「今年は花火がしたかったなあ」とつぶやいていたら、「それより、もっといいことがあるやん」と、急遽家族でキャンプに出かけることになった。

キャンプ場に着くなり、まず主人がとりかかったのがたき火だった。海辺に漂着している流木をひろい集め、石造りのかまどに並べて火をおこす。あとは飯ごうで雑穀入りのご飯を炊いたり、新鮮な魚を炭火で焼いたりと、その日一日いろいろと役に立ったたき火だったけど、主人の狙いは他にもあったらしい。

食事のあとも、主人は薪を継ぎ足して、火をおこし続けた。だんだん大きくなった炎から火の粉が舞い上がって、辺りの夕闇へと吸い込まれていく。「火事になるよー」と騒いでいるうちに、逆にたき火の燃える様子から目が離せなくなった。たまに薪を継ぎ足してもらいながら、何となく揃ってじっと炎をながめる。

そのうち、かまどのたき火が、ミニサイズのキャンプファイアーみたいに見えてきた。「花火より、よっぽどきれいかもなあ」と私は言った。そうして、五味太郎さんが『絵本をよんでみる』の中で紹介していた、『よあけ』という絵本のことを思い出した。

――とにかくたき火するのが好きなの。もちろん火をつける時に、原則的にはガソリンとか石油みたいな下品なものは使わない。まず新聞紙一枚をだいたい八等分ぐらいに切って、細かくねじる。ちょうどうんこふくぐらいの大きさに切るわけ。で、それに火をつけながら、そのわきに湿った薪を足して徐々に乾かしつつ燃やしていく。そうやって火がついた薪ってすごく火もちがするんで、その火で緑茶や紅茶やコーヒーいれて、豊かな時間をすごす、なんていうとんでもない趣味の団体を三人でつくって。そのきれいなたき火の印象が、この『よあけ』のたき火の画面を見るとよみがえるんだ。(一部中略)
(その2につづく)
タグ:五味 太郎
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2006年09月03日

『一頁の力』を持つ絵本〜五味太郎『絵本をよんでみる』(その2)

〓〓Book 015.jpg
『よあけ』の中のたき火のシーン
(『絵本を読んでみる』123頁より)

…そのきれいなたき火の印象が、この『よあけ』のたき火の画面を見るとよみがえるんだ。夜明け少し前の朝、たぶん朝霧がたっている。そこにたき火の煙が一筋のぼっていく。この煙のたち方はほぼ理想的なたき火なんだよね。このたき火をみるだけで、このおじいさんがいかに人生を深く歩んできたか、ということがわかる。ぼくのたき火体験からわかるこのたき火のすごさ。この煙はそうだれにでもたつもんじゃない。(一部中略)

五味さんは、このたき火のシーンがある一頁をながめたいがために、『よあけ』の絵本を開いてみることがあるという。絵本の中には、そうした『一頁の力』を持つものがあって、「ある一部分が見たいがために一冊の絵本が存在するということも十分あり得るんだ」と五味さんは語る。「ぼくにとっては、この『よあけ』がまさにそういう本だ。たき火の一頁が核になって、『よあけ』という絵本がぼくの中で重要な本になる」。

―もしかしたら、この絵は作者がそんなに力を入れたところじゃないかもしれないけどね。それこそラストの劇的な日の出のための、ほんの伏線にすぎないのかもしれない。でも、そんなこと知ったことか、というのがぼくの読み方でね。
それにこの『すこし ひをたく。』という文章。この「すこし」に多大な意味をこめて読むことが可能だよね。遠慮するという意味なのか。必要なだけ、というニュアンスなのか。すぐ出かけなくちゃならないという意味合いもあるかもしれない。深読みすれば、このおじいさんの「人生の火」がもう少ないのかもしれない。あるいはおじいさんと孫の二人旅そのものが、何かしらの意味においてひそやかと言えるのかもしれない。またあるいは、すでに火に対して神的なものを見とらえていて、それゆえに「すこし」なのかもしれない。(一部中略)

とりあえず、この間のキャンプでは、それほど深い考えもなしに、ただぼうっと炎をながめていただけなのだけれど、それは、静かな夜/夜明けにしか焚くことのできない「きれいなたき火」の味わいを、再発見することができた貴重なひと時だったのかもしれない。

よあけよあけ
ユリー・シュルヴィッツ 瀬田 貞二

福音館書店 1977-06
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2006年09月12日

想像力を駆り立てるための炎〜『火を喰う者たち』(その1)

火を喰う者たち火を喰う者たち
デイヴィッド・アーモンド 金原 瑞人

河出書房新社 2005-01-14
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火喰い男(fire-eater)というのは、サーカスなどで、炎を飲み込むパフォーマンスをする奇術師のこと。転じて、すぐかっとなる喧嘩っぱやい人のことを言ったりもするらしい。
もちろん、この本の表紙に描かれている「火を噴く男」は、主人公のボビーが出会った不思議な曲芸師、マクナルティに違いない。けれど、なぜか物語のタイトルは『火を喰う者たち』と複数形だ。作者のデイヴィッド・アーモンドが The fire-eaters と呼んでいるのは、いったい誰のことだったんだろう。

THE FIRE-EATERS は、キューバ危機が起こった当時の物語だ。ボビーが中学校に通い始めて間もなく、核ミサイルの行方を伝えるテレビのニュースが、彼の住むイギリスの小さな海辺の村にも流れ始める。核戦争の噂はもちろん、教師トッドがふるう鞭の痛みや、最近体調を崩した父親の苦しそうな咳にも不安の火種はひそんでいて、ボビーの安らかな眠りをうばうのだった。
そんな時ボビーにできるのは、ただ「祈る」ことだった。幼なじみのアリサによると、死んだはずの幼い小鹿が、一晩中お祈りをすることで生き返ったという。もしも人間にも、アリサの言う「祈りの力」が通用するとしたら…
「父さんがよくなるなら、ぼくはいい人間になります。どんなときも悪と戦います」
夜の寝室で、流れ星に向かって祈ったことを、ボビーは自分にできる形で、とにかく実行しようと誓うのだった。

やがて、生徒に鞭を振り上げた瞬間のトッドの姿を捉えた写真が、「邪悪」「罪」という走り書きと一緒に、学校中にひそかに張り出される…

***

私個人は宗教を持っていないから、ボビーやアリサがどんな思いで「祈り」をささげていたのかを、本当の意味ではたぶん理解することができない。その上戦争も、キューバ危機すら実際には経験していないから、THE FIRE-EATERS のような作品を読むときは、どうしても感覚的に大きなギャップを感じてしまう。
作者のデイヴィッド・アーモンドは、処女作の SKELLIG (『肩甲骨は翼のなごり』)から大好きな作家で、ずっと読み続けてきた。それが、この THE FIRE-EATERS には冒頭から何となく読みづらさを感じて、長らく積読状態になっていたのは、たぶんそのせいだったのだと思う。

戦争を知らない世代にとって、戦争についての作品を読むには想像力が必要だ。THE FIRE-EATERS で、ボビーが直面する不安や恐怖、暴力のことが、ああもリアルに描かれているのは、そのことを作者アーモンドが配慮した結果だったのかもしれない。
たぶん、作品の中に周到に用意された、ちょっと荒っぽい想像力の「媒介物」のようなものなのだ。マクナルティが、観客の前で飲み込んでみせる炎も、自分のほおにゆっくりと突き刺していく銀色の串さえも、何もかもが。私みたいな引け腰の読者でも、第二次大戦後間もないあの時代へと、無理なくジャンプできるように。(その2につづく)

★今回、トラックバックをさせていただいたブログのページです。

プリオシン海岸―佐吉の読書夜話―
『ヘヴンアイズ / デイヴィッド・アーモンド』
posted by ふらら at 09:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 子ども・絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月15日

少年が世界のために祈ること〜『火を喰う者たち』(その2)

あまり本筋には関係がないけれど、とても心に残るシーンがあった。ボビーたちに生物を教えているビュート先生が、授業でカエルの解剖をするという場面だ。
先生はカエルの腹部にメスを入れて、小さな肺と心臓を取り出してみせる。「まるで違った生き物なのに、私たちとそっくりでしょう」と先生は言う。「このカエルが失くしたものは何だと思う?」
「命です」
「じゃあ、もしこのカエルが、また命を取り戻したらどうなる?」
「痛さを感じます」
「机から飛んで逃げます」
「心臓がまた動きます」
生徒の一人がそう答えると、先生は細い針金を取り出して、カエルの心臓に押し当てた。そのうち、心臓がぴくっと動く。
「ほら、生き返ったかな、このカエル?」
生徒はみんな首を横にふる。
「そう、これはただのトリックね。じゃあ、このカエルに足りないものは何かしら? いったい何を失くしたの?」
「命です」
「じゃあ、命っていったい何だろう?」
誰も答えられない。
「謎よね。カエルの体を切り開いても、この謎は深まるばかりなの」
最後に、ビュート先生はこう言った。
「宿題はなし。ただ、今見たことを忘れないで」

***

私が中学生だった頃、すでに「カエルの解剖」は生物の授業のカリキュラムからなくなっていた(それは、単に「残酷だから」という理由からではなかったはずだけど)。そのせいか、このシーンを読んだとき、ボビーたちと一緒に、ビュート先生から何か大切なことを教わったような気がした。

眼をつむって、知らないふりをしてやり過ごそうとしても、そうはいかないものもある。死もそうだし、たぶん痛いという感覚もそうだ。
また少年がナイフで誰かを襲った、とニュースが流れるたびに、ある友人は、
「ナイフを普段使ってない子は、自分で怪我したことないから痛みが分かってない。もっと鉛筆削りでもリンゴむきでもさせて、ナイフの怖さを教えた方がいい」
というけれど、ストレートに言えばそういうことかもしれない。
痛みがどんな感覚かを知っておくことはとても大切だ。死とは何なのかを想像することも。そうした直感にうながされて、戦争の話を私たちに語ってくれる人がいる。The Fire-Eaters のような物語を書いてくれる人がいる。アーモンドが、体罰が横行する中学校の中で、ひそかに生徒を思いやる教師としてビュート先生を描いていることにも、何か意味があったのかもしれない。

物語のラスト近く、世界中が核ミサイルへの恐怖に飲み込まれようとしていた夜に、ボビーは最後の「祈り」をノートに書き付ける。それは、自分にとって身近な人の名前、動物や昆虫や植物の名前を、思いつく限りすべて書き並べていくというものだった。
「全部の名前は書ききれないけれど、このすべてをお救いください。どうしてもだれかを召さなくてはならないのなら、このぼくを召してください」

ボビーのこの祈りについて、共感しようとするのはとても難しい。冗談でもこんな祈りをささげる気にはなれない現代の日本で、私は安穏とこの本を読み終えてしまった。
けれど、少なくとも作者は、あの夜のボビーの真摯な思いについて、そのバックグラウンドを交えて想像してみるチャンスを与えてくれている。たとえばボビーは、最後の「祈り」の中のラインナップに、自分たちに鞭をふるったトッド先生の名前も加えていた。猛り立っていた感情の炎も何もかも、すっかり飲み干すようにして。

The Fire-EatersThe Fire-Eaters
David Almond Daniel Gerroll

Listening Library 2004-05
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2006年09月18日

長新太『海のビー玉』より〜生み出す人、排泄する人

あるとき立ち寄った古本屋で、こんな本を見つけた。

海のビー玉海のビー玉
長 新太

理論社 1985-07
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懐かしい長新太さんの名前にひかれ、手にとってぱらぱらとページをめくったとき、「作品は排泄物だ」という衝撃的な名フレーズを見つけて、思わず購入してしまった。
帰宅後、さっそくこのフレーズの詳細を確認してみたところ、心理学者の河合隼雄さんと対談をしていた長新太さんが、突如、「これは僕の持論なんですけれどね…」と前置きして語り出したセリフだったと分かった。

長「僕は自分で描いたものは排泄物であると思っているんです、だから、忘れてて全然覚えていないっていう(笑)そういうところがあるんですよ」
河合「そうですか」
長「打ち上げ花火のようにパッとついてパッと消える、そういういさぎよさが作品には必要だなんて言った人がいるけれど、僕はそんな粋じゃなくて、水洗というか、そういうのに流してしまうというか」
河合「その気持ちはよく分かるんですけれども、自分の排泄物のために金を払う人がおるということをどう思われますか(笑)ここんとこがひじょうに大事なんですが」
長「わたしの、一種の黄金というか(笑)」
河合「なるほど。それは事実ですね。これは昔話でも得意中の得意なんですが、つまり最低のものは最高のものに変化する」
(一部中略)

この後も、話はどんどん発展していって、「排泄」という行為の中には、そもそも「子どもを産む」=「生み出す」というイメージが入っているから、子どもなんかはうんちとかがものすごく好きなんだ、と河合先生が語ったりする。

河合「…おかあさんは子どもを産んだかしらんけど、自分は頑張ってうんちを生めるわけだから。一般の人は、そういうふうなイメージが全然分からないんですね。だから排泄物っていったら変な顔するけど、生み出したものっていったら俄然感激するんです。似たようなものなんですけどね」
長「そういえばそうですね」

結構そのままな長新太さんの受け答えを、前向きな解釈でどんどん膨らませていくやり手の河合隼雄センセイ、という構図も見えなくはないけれど、「排泄」の一言でオチることなく、ますます濃いやり取りへと煮詰まらせていくこの二人はやっぱり只者ではない。(ひょっとして河合さん、長さんのファンだったんだろうか?)

そのうち、「怪人タマネギ男」「ジャガイモ男」などの作品を切り口に、長さんの「地下茎族(リゾ−ム)」としての本質に迫る…という、何だか奥深い展開になっていく。排泄物→潜在意識→地下→土中(土宙)→地底大探検→怪人登場→異常と正常の境界…と、イメージ遊びのように広がっていく「絵本作家」分析がたいへん興味深い。

(この記事は、別ブログ『掘れたて本』の記事を転載したものです)
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2006年10月09日

天の橋、地の橋〜『いまは昔 むかしは今(第2巻)』より

もう半年ばかり前になるけれど、京都国立博物館の「大絵巻展」を見に行ってきた。
「源氏物語絵巻」や「鳥獣人物戯画」など、図版でしか見たことのない有名どころが目白押し。なかなか楽しめる展示だった。
それ以来、ちょっと気になっている本がある。

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天の橋 地の橋     いまは昔むかしは今 (第2巻)天の橋 地の橋 いまは昔むかしは今 (第2巻)
網野 善彦 佐竹 昭広 大西 広

福音館書店 1991-01
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この『いまは昔むかしは今』(全5巻)は、中世の説話世界の魅力を子供たちに伝えようと、15年の歳月をかけて制作されたという傑作シリーズ。第2巻では、日本神話の国産みのシーンに出てくる天の浮橋や、役の行者が鬼神に命じて作らせた橋など、名立たる「橋」の伝説とその謎が、資料と図版を通して読み解かれている。

「大絵巻展」でもそうした趣向が凝らされていたけれど、中世の絵物語の「絵解き」には、本当に底知れない奥行きがあるような気がして興味深い。例えば、本書の「橋にひそむもの、川にひそむもの」の章では、『橋姫物語』という謎の絵巻物と、そのあらすじが紹介されている。

『むかし、二人の妻を持つある中将が、水神にさらわれて行方不明になった。やがて、夫を探しに出た妻の一人(宇治の橋姫)が、水神に仕える老婆に案内され、煮える鍋の前でしばらく待たされる。「決して鍋の中をのぞいてはいけません」という老婆の言いつけを守った橋姫は、ようやく中将との再会を許された。橋姫は、もう一人の妻にも老婆の居場所を教えたが、こちらの妻は老婆の言いつけを破り、鍋の中を見てしまったために、とうとう夫に会うことができなかった…』

Book 010.jpg
『橋姫物語絵詞』絵3(一部)

「なぜこの女の人、宇治の橋姫っていうんだろう」
「橋なんかぜんぜん出てこないのにね。それにこの絵おかしいよ。橋姫はお鍋を開けなかったから、中将と会うことができたのに、中をのぞいている絵が描かれているもの」
「絵のはりまちがいなんじゃないの」
「ちがうよ」
「着ている服からみると、ラストシーンに出てくる女の人の服は、橋姫と同じなんだよね。でもこの人は『もう一人の妻』のはずだし…」
「じゃあ、画家は物語を無視して勝手にかいたってこと?」
「それとも、画家の頭の中にはちょっとちがった物語があったのかもしれない」
「そんなことってあるの?」
「さあね。みんなで考えてみようじゃないか。実はこのお話は平安時代の大むかしから、もうよくわからなくなってしまっていて、いろいろな人がいろいろなことをいっているんだ」
(一部中略)

子どもたちと先生との会話というスタイルで、「絵解き」は淡々と進められていく。後のさまざまな文献から、橋姫についての記述が豊富に引用されていくものの、「宇治の橋姫とは宇治の橋の下にいる神様である」という説があれば、「宇治の橋姫は、あの嫉妬から鬼となった鬼女橋姫である」という説もあって、何だかミステリーのような展開になっていくからおもしろい。

「なんだか、このお話の後ろに、すごいお話がかくれているみたい」
「一つだけじゃなくて、いくつものべつの話がかくれているのかもしれない」
「どんなお話だったんだろう」
「まるで雲をつかむみたいだけど、龍王や水の神さまのまつわる話であることにはまちがいないね」
「この女の人、橋だったんじゃないのかな」
「ええっ」
「橋が人間になって歩き出した…」
「橋の霊というわけか。橋の霊と水の神さまのお話…」
(一部中略)

この他にも、『御伽草子』の橋の挿絵に隠された一寸法師の出生の秘密や、なぜか未完成に終わっている雪舟の『天の橋立図』の構図の謎など、意外なアプローチの絵解きが続出して、子供も大人も十二分に楽しませてくれる。中世の名作の世界へと、読者をいざなってやまない傑作だ。

ところで、この本の冒頭には、次のように問いかけた一文がある。

これはいまから八百年以上前に描かれた絵の一部だ。
どこかすこし奇妙なところがある絵だなと感じはしないだろうか。
実は、この絵の中には何かがかくれている。
さていったい何がかくれているのだろう?

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タグ:網野 善彦
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2006年12月01日

熱中する気持ち、うつくしい横顔〜灰谷健次郎『せんせいけらいになれ』より

せんせいけらいになれせんせいけらいになれ
灰谷 健次郎

角川書店 1999-03
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いま、個人的に感謝状を贈りたいと思っている人がいる。先日食道がんで亡くなった、児童文学作家の灰谷健次郎さんだ。
灰谷さんは、小学生の頃、初めて好きになった作家の一人だった。中でも『せんせいけらいになれ』は大のお気に入りで、飽きもせずにくり返し読んでいたような記憶がある。
この本は、小学校の教師をしていたころの灰谷さんの体験を元に書かれている。灰谷さんが現場で行っていた詩の授業と、子どもたちが実際に書いた詩が紹介されているのだけれど、その内容は子供心にもショッキングで、強烈なメッセージにあふれたものだった。
「ギャングのテスト」「ざんこくさいばん」「おとな観察記録」など、灰谷先生が出してくるテーマはどれも型破りだ。それに答えて書かれた詩も、同じ年頃の子の作品とは思えないほど生き生きとして、力強いように思えた。当時のハードカバー版(理論社)に描かれていた、坪谷玲子さんの愛らしいイラストのことも忘れられない。児童向けにひらがな表記されていることもあって、つい吸い込まれるように読みふけってしまう、そんな一冊だった。

「おならのこうぎ」

 わたしはおならです。わたしがでてくると、みんな、はなをつまみます。わらう子もあります。わたしのことを口にすると、たいていのおとなは、いやらしいといいます。おぎょうぎがわるいともいいます。
 おならというのは、そんなに悪者なのでしょうか。

   ■おかあちゃん*1年 くりやま・ともこ

   おおきいおしりが
   おもしろい
   おおきいおならを
   こきました

 なんとどうどうとしたかきっぷりでしょう。すこしもものごとにこだわっていません。人間が大きくなり、ねうちのあるしごとをするためには、くりやまさんのように、ゆうゆうとした心、海のようなひろい心をもっていなくてはなりません。

   ■おなら*2年 しいの・けいこ

   ぷすん
   ぱすんと
   おならをこきました
   それから
   わたしは
   おくさんごっこをしました

 この文には、おもしろはんぶんなところはすこしもありません。
 子どものせいかつが、ぶあつい本をよんでいるような力で、しかも、きりりとひきしまった文しょうでなげだされているのです。おならのわたしはこれをよんで、にっこりわらったものでした。
「おならは生活だぞ」
 と、さけんだものでした。
(一部中略)

小さい子どもはみんな下ネタが大好きだ。『せんせいけらいになれ』で紹介されている詩の中でも、低学年の子の作品はどれもシンプルで、とにかく笑えるものが多かった。気に入った詩を大きな声で音読しては、よく友達と一緒に笑い転げていたのを思い出す。
けれど、同じ「おなら」がテーマでも、3年生くらいの子になると、「えっ」と驚くほど凄みのある作品を書いていたりした。灰谷先生からの感想やメッセージも、それにつられるようにますます深みを増していくのだ。

   ■おなら*3年 光山 良子

   わたしが おとなだったら
   かんごふさんになって
   おなら ばっかり こきます
   びょうにんを しんさつしているときも
   おならをこきます
   かんじゃさんが がまんしてたら
   もっと もっと
   おならをこきます
   けっこんしても おならをこきます
   わたしのうんだ子どもにも
   おならを こかします
   うれしいときも
   おならをこきます
   おめでたいときも
   おならをこいて おいわいします
   わたしがいいことをして しぬと
   みんな おはかにきて
   ほめてくれるでしょう
   そのときも
   おならをこいて
   みんなをおどろかします
   かみさまにおこられても
   ぷーぷーとおならをこいて
   ごまかしておきます

 おどろきました。おならの詩はたくさんよみましたが、こんな詩は、はじめてお目にかかります。ここまでおならにのめりこんだら、おならもりっぱなもんだと思います。
 子どもの詩に、おならをざいりょうにしたものは多いです。おならというと、だれでもわらうし、なんといっても身ぢかだから、詩にするのにつごうがいいのでしょう。しかし、そういうざいりょうは、よくよくしっかりした心でかかないと、いいかげんな詩になってしまいます。
 光山さんの詩が、ずいぶんいいかげんなことをかいているようだのに、よむ人にすこしもいいかげんな気持をおこさせないのは、光山さんの心のなかに、人をわらわせてやろうという、いやしい心がすこしもないからなのです。
 へんないいかたですが、光山さんはおならとかくとうしているのです。おならのなかにのめりこんでしまっているのです。おならに熱中しきってしまっているのです。
 熱中する心というのを、もうすこしくだいていうと、すきですきでたまらなくなる心、むちゅうになってしまう心といえるでしょう。
 すきですきでたまらなくなって、じぶんでもこまるくらいになってしまった、というけいけんをもっている人はありませんか。すきになるものはなんでもよろしい。バナナをたべているときでも、絵をかいているときでも、もけいひこうきをつくっているときでも、いたずらをしているときでも、なかのよいともだちとあそんでいるときでも、なんでもいいのです。
 人間はなにかに熱中すると、うつくしくなるといいます。たとえばしごとにうちこんでいる人の横顔は、おそろしいほどうつくしいといいます。詩も、そんな顔とおなじです。むちゅうになっていればいるほどうつくしい作品がうまれるのです。うつくしいかがやきがにじみでてくるのです。(一部中略)

学校の国語の授業が退屈でたまらなくて、よく転寝をしていた私なのに、この本だけは妙に夢中になって読むことができた。あんな読書体験をしたのは、多分生まれて初めてのことだったんじゃないかと思う。詩の楽しさ、うつくしさのことを、私に教えてくれたのは灰谷さんだった。おかげで、うまい詩を自分で書くことはできないけれど、人のいい詩を読むのは今でも嫌いじゃない。
長い間、私にとってスーパースターの筆頭だった灰谷さん。本当にありがとう。どうか安らかに眠ってください。

★今回、トラックバックをさせていただいたブログのページです。

みたいもん
『灰谷健次郎さん死去に、児童問題が華やかであった頃を思い出す。』
posted by ふらら at 09:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 子ども・絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月22日

安らぎの空間、憎しみの空間〜東宏治『ムーミンパパの「手帖」』より

ムーミンパパの「手帖」―トーベ・ヤンソンとムーミンの世界ムーミンパパの「手帖」―トーベ・ヤンソンとムーミンの世界
東 宏治

青土社 2006-12
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ムーミンといえば、あの日本版アニメがすぐに思い浮かぶ。故・岸田今日子さんの個性的な声が、ほのぼのとしたムーミンのイメージにぴったりで、再放送があるたびに何度も見ていた大好きな番組だった。
けれど、本書で紹介されているのはトーベ・ヤンソンの原作、北欧の澄んだ空気を漂よわせた「ムーミントロール・シリーズ」の方だ。

ヤンソンは、フィンランドのヘルシンキ生まれ。彫刻家の父親とイラストレーターの母親という二人の芸術家の元で育った。暖かいストーブの前で、よくおとぎ話を聞かせてくれたという母親。一方、嵐の海が大好きで、ヤンソンを孤島へ連れて行っては、冒険ごっこを楽しんだという父親…。そんな『安らぎと刺激の両方』に満ちた少女時代の思い出が、ヤンソン作品にはふんだんに生かされている、と東さんは指摘している。

実際、ヤンソンの作品には、ほのぼのとしたあたたかさ、やさしさ、思いやり、おおらかさとともに、同時に残酷さや辛辣さ、意地悪さ、いじけなどもふんだんにあるのであって、テレビアニメのムーミンは、そうしたいわば毒のない分、原作の持つ深みを失っている。(『ムーミンパパの「手帖」』)

そういえば、ヤンソンがよく描いているモチーフとして、「安らぎの空間」と「憎しみの空間」がある、と東さんは書いている。

(ヤンソン作品では)たいていの人物がそれぞれに落ちつける安らぎの場所を持っている。例えば、「夕空を眺めると、いつもロマンチックな気持でいっぱいになる」ムーミンパパは、北側の屋根裏にある西向きの部屋を、「朝が好きな」ムーミンママは東向きの部屋を、それぞれ持っている。(『ムーミンパパの「手帖」』)

まるで、小さな動物が冬ごもりをする「巣穴」のように、あたたかくて快適で、外部から守られている「安らぎの空間」を、ムーミン親子はそれぞれに持っているのだという。

一方でヤンソンは、「憎しみの空間」も描いている。平和そのものに見えるムーミン谷にも、実は『落ちつけない、不安にさらされる空間』があった。さらには『他人に対して、ひそかに憎しみや怒りを抱くことの許される空間』さえあったというのだ。

この東さんの指摘を読んで、昔読んだことのあるムーミンの絵本を思い出した。ママのおつかいでミルクを買いに出かけたムーミンは、帰り道の森の中で迷ってしまう。あてもなく彷徨っているうちに、新鮮だったはずのミルクもとうとう腐ってしまい、暗がりの中でムーミンはひとり途方にくれる…危機的とも思えるそんな状況を、淡々としたタッチで描いたヤンソンのイラストは、強烈な印象となって心に残った。アニメの「ムーミン」には決して出てこなかったようなワンシーンだ。

ところが、そんな恐ろしい森の中が、ムーミン一家にとってかけがえのない場所となることもあったという。

「ミムラねえさん」と、ホムサははにかんだ声で言いました。「もし、君がさ、とても大きな動物でさ、腹を立てたら、どこへ行くと思う。」ミムラねえさんはとっさに答えました。「うちの裏ね。お勝手の裏の、気味の悪い森の中よ。腹が立つと、あそこへ行ってしまったものよ。」〔…〕「行ってしまったって、君が腹の立ったときのことなの?」「違うわ。ムーミンのうちの人のことよ。〔…〕あの人たちは、憂うつなとき、腹のたつとき、ひとりになってせいせいしたいときには、裏へ行ったわ。」ホムサは足を一歩うしろに引いて大声をあげました。「嘘っぱちだ、そんなこと。ムーミンたちは怒ったことなんてないんだ。」(『ムーミン谷の十一月』)

幼いホムサ=トフトには、大好きなムーミンや、憧れのムーミンママが腹を立てたり、悲しみに浸ったりすることがあるとは信じられない。けれども、ミムラねえさんからこの話を聞いた数日後、たまたま裏山の「怒りの森」に迷い込んだホムサは、『森のもつちからに触れるとともに、こうした森の必要性と、そうした空間を必要とする人間性とを理解するのである』。

〔ホムサが森の中にまっしぐらにかけこむと〕たちまちまわりがうす暗くなりました。ミムラねえさんがいつか話していた、あの、ひとの来るのをいやがる、気味の悪い裏山の中でした。この森の中は、年中、昼でも暗いのです。木々は枝の置き場もないほどこみあっていて、心配そうにくっつきあって立っていました。地面はつるつるした皮みたいに見えました。〔…〕これは新しい世界でした。ホムサには、ことばで説明することも絵に描くこともできませんでした。何ひとつ、絵やことばにしてやる必要もないのです。ここにはいままで道をつくろうとしたひともいないし、木かげで休もうとしたひともいないのです。ただみんななんとなく暗い思いを抱いて、この中を歩きまわるだけなのです。これは怒りの森でした。彼はすっかり気持が落ち着いて、とてもいきいきとしてきました。〔…〕ホムサ=トフトは、森の中を奥へ奥へと入っていきました。何も考えないで、枝の下をからだをこごめてくぐり抜けたり、這ったりしているうちに、頭の中が、あの水晶玉と同じように空っぽになりました。そうだ、ムーミンママは、くたびれたり、腹が立ったり、がっかりしたり、ひとりになりたいときには、あてもなく、果てしもなくうす暗いこの森の中を歩きまわって、しょんぼりした気持をかみしめていたんだ…。ホムサ=トフトには、まるっきりいままでとは違ったママが見えました。すると、それがいかにもママらしく、自然に思えました。ホムサはふと、ママはなぜ悲しくなったのだろう、慰めてあげるにはどうしたらいいのだろう、と思いました。(『ムーミン谷の十一月』)

『ヤンソン作品の素晴らしさは、読者対象が子供であっても、ものごとの両面、多面を隠さず描くところにある』、と東さんは書いている。

いつか読んだあの絵本の中で、道に迷い、ミルクを腐らせてしまったムーミンが、その後どうなったのかはよく覚えていない。けれどもきっと、そうした目に遭わなければ会うことのなかった誰かと出会い、気付くこともなかった何かを見つけて、無事にムーミン谷に帰りついたことだろうと思う。

★ちなみに…ムーミン公式サイトはこちら
Welcome to Moominvalley ムーミン谷へようこそ
村民登録やミニゲーム、壁紙のダウンロードもできるようです。
posted by ふらら at 10:35| Comment(4) | TrackBack(1) | 書評 子ども・絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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