2006年08月01日

河合隼雄『こころの生態系』(1)〜アゲインスト・ネイチャー(反自然)

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自然でありのままの暮らしって、いったいどんなものなんだろうなあ、と時々思う。

もう何年も前のことになるけれど、ある海辺の村の廃校跡に作られた、不思議な民宿に遊びに行ったことがある。
民宿のご主人のKさんは、元は東京の出版社に勤めていたそうだ。けれど、アウトドア好きが高じて会社を辞め、家族を連れて村に引っ越してきたのだと話してくれた。

「この民宿に来た人は、何をしてもいい。自由にすること」
そんなKさんの言葉にうながされて、私たちはのんびりと自然の中での休暇を楽しんだ。Kさん一家と浜辺を散歩したり、シュノーケルで浅瀬にもぐってみたり、夕ご飯のおかずを釣りに行ったりしているうちに、相当楽しい時間が過ぎていったのを覚えている。

そんなとき、Kさんが、私たちにふとこんな質問をした。
「どう、こんなところで暮らしてみたいと思う?」
「そうですね」
私はとっさにうなずいた。休暇気分にすっかりひたっていたせいかもしれない。
「こんな自然いっぱいのところに住めたら幸せでしょうねえ」
「でも、あんまり若いうちから自然の中にいてもだめだろうね」
「は?」
「それだと、何にも分からないうちに幸せになっちゃうからね。若いうちはまだ街中にいて、いろいろがんばっておいた方がいいと思うよ」
意外な話の展開だった。Kさんが何を言いたいのか理解できなくて、私たちは顔を見合わせた。

****

自然に、ありのままに生きるのって、意外に難しいものだ。

人間はもともと自然の一部なんだから、ありのままに、自然に生きよう…と言ったら響きはいい。けれど、人間にはもともと「自然に反することをする性質」、つまりは「アゲインスト・ネイチャー(反自然)」の性質があるのだと、ユングの言葉を借りて説明している人がいる。心理学者の河合隼雄さんだ。

(その2につづく)
タグ:河合 隼雄
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2006年08月02日

河合隼雄『こころの生態系』(2)〜「何にもしないこと」の難しさ

こころの生態系―日本と日本人、再生の条件こころの生態系―日本と日本人、再生の条件
河合 隼雄 中沢 新一 小林 康夫

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人として生きていく上で、私たちはいろいろと自然でないことをやっている。自然に反して、それを操作しようとするのが、むしろ人間にとっては自然なことなのだ、と河合さんは言う。
 二十世紀を特徴づけた言葉は、「オペレーション(操作)」ではなかったかと私は考えています。(中略)たとえば工学とか医学など、オペレーションに結びつく知というものが高く評価されるようになりました。私どもがやっているような文科系よりも、どういうものをいかにつくればたくさん売れるか、どれほど儲かるかということに結びつく知の方が、価値が高いとされてきたわけです。
 オペレートできるということは、こうすればこうなるという結果がはっきり出てくるということです。そして、望む結果に直接的に結びつく知は、みんながほしがります。いち早くそういう知を持った人が、それによって大きな利益を手にすることができるからです。それを早く持たなければ、乗り遅れ、取り残されてしまいます。
ところが、効率性を追い求め、オペレーション一辺倒になってしまった現代社会では、次第にバランスがくずれ、破壊が表面化するようになった。その端的なあらわれが、公害だったり、自然破壊だったりするのだという。
だからといって、自然そのものに帰ってしまったとしたら、人は社会で生きてはいけなくなってしまう。「オペレートしなければならないとき」と、「自然のままにまかせて、何にもしないとき」を、バランスよく見きわめなければならないが、これが非常に難しい、というのが河合さんの説明だ。
私がやっている心理療法の現場では、実際に何もしないことが多く、私は自分の職業を、「何にもしないことに全力をあげる商売」と言っていますが、これも、なかなか全力をあげられないのが現状です。
よく、何にもしないことに全然力を尽くさずに、何もしない人がいますが、これではだめです。何もしないということに全力がかかっていないと、何もしないということの意味がありません。ですから、何もしないことに全力をあげるには、相当の習練が必要です。何もしないでいいなら、私にもできるなどと思われがちですが、ことはそう簡単ではありません。
 簡単に言えば、「自分はやっぱり人間だなあ」と思うときは、オペレートしたらいいのではないでしょうか。うまくいっているときは、人間とかなんとかを意識しなくても、自然にしていればいい。「おれもやっぱり人間か」と思うとき以外は何もせず、人間と思ったときは、人間なりにやらせていただく。そして、人間なりにやらせていただくからには、責任は完全にとるということが大事ではないかと思います。(一部中略)
ふと思い出すのは、あの海辺の民宿で、沈んでいく夕日をじっと眺めながら、黙って長い時間を過ごしていたKさんの姿だ。何かを抱え込もうとするみたいに、ゆっくりと両手を広げたその姿は、まるで夕日から目に見えないパワーのようなものを受け取ろうとしているみたいだった。

現代社会で、「三年寝たろう」のように自然にまかせて、「何にもしない」で生きていくには、昔話の時代よりも、ずっと多くの習練を積まなければならないのかもしれない。少なくともKさんは、「全力で何にもしないこと」の難しさを、身をもってよく知っていたんじゃないかと思う。

(その3につづく)
タグ:河合 隼雄
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河合隼雄『こころの生態系』(3)〜「反自然」を学ぶこと

正直な話、私は一度、村暮らしをしようとして、見事にしくじった経験がある。

Kさんとの出会いから数年後、村での暮らしへのあこがれを募らせた私は、ある伝統工芸の村の研修館に通い始めた。同じような理由で全国から集まった仲間たちといっしょに、得がたい経験を積む毎日が続いたけれど、そんな楽しさは長くは続かなかった。
結局、わずか数年ばかりで、私は村を去ってしまったのだけれど、自分でもその本当の理由はよく分からない。「何にもない」山間での暮らしが、このまま一生続くのだということに、ふと恐怖心を抱いてしまったせいかもしれない。
あの日、Kさんから聞いた言葉が、妙に印象的に心によみがえってくるようになったのは、そんな失敗を経験した後のことだった。

「あんまり若いうちから自然の中にいてもだめだろうね」

そう言った時のKさんは、私の中にあった「田舎暮らし」へのあこがれの半端さを、すでに見抜いていたのかもしれない。

「自然でありのままの暮らし」に全力がかかっていないと、人は自然体にはなれない。電気もガスもないところで暮らしたら、誰でも自然な生き方ができる、というものでもないのだから。自然の中でのんびり暮らしているようでも、何かに行き詰まったときには、人はやっぱり「オペレート」をして、自然の流れに抗わないといけない。当時の私には、多分まだそれだけの準備ができていなかった。

思いつきや遊び半分で、自然の中への移住を考えるより、まずは自分が普段暮らしている場所で、しっかりと「オペレーション」を学んでおいで。Kさんは、そう言いたかったのかもしれない。
タグ:河合 隼雄
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2006年08月15日

永遠が回帰するところ〜『時間についての十二章』(その1)

このお盆は、故郷の田舎に帰省してきた。
幼い頃、私が育った家は区画整理のために取り壊され、すでに跡形もないけれど、先祖代々のお墓は今も変わらず、里山の中にひっそりと眠っている。

あの村で暮らしていた頃は、こじんまりとした里山そのものを、みんなの共同の庭のように思っていた。あるとき、家の玄関先から、山の上で植林をしている数センチほどの父親の姿に向かって、
「おとうさーん、ごーはーんー」
と呼びかけたことがある。すると、こだまと一緒に私の声を聞きつけた父は、ゆっくりとこちらを振り向いて手を振ってくれた。

父が植えた杉の苗木は、今では立派に成長して、山一面のこんもりとした緑になっている。その様子を自慢そうに眺める父と一緒に、今年はひさしぶりに「花立て」に行ってきた。お盆の前に墓の掃除をすませ、花をお供えしてくるという昔ながらの慣わしだ。

日よけのために作業着を着込んで、蚊取り線香を下げた格好で山に上るのだから、まあ「暑くてしんどい」だけの伝統行事なのだけど、行く先々で昔の幼なじみに出会えたり、小さい頃に遊んでもらったおばあちゃんの元気そうな姿を見かけたりして、いろんな懐かしさの漂うひと時でもある。

「まあ、ふららちゃん、大きいなって! この間まで、まだこんな小さかったのになあ…」
おばあちゃんの脳裏には、まだ小学生ほどの私の姿がリアルに残っているようで、ほんの腰くらいまでの子供の背丈をジェスチャーしながらニコニコと笑ってくれた。

お年寄りの昔話、と言ってしまえばそれまでだけど、そこには、ずっと里山で暮らしてきたおばあちゃんならではの、不思議な時間感覚が流れているような気がする。内山節という人が、『時間についての十二章』という本の中で、そんな里山に流れる時間のことを書いていた。

(その2につづく)
タグ:内山 節
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2006年08月17日

永遠が回帰するところ〜『時間についての十二章』(その2)

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時間についての十二章―哲学における時間の問題時間についての十二章―哲学における時間の問題
内山 節

岩波書店 1993-10
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普段は東京で暮らしながら、折々に群馬の山里を訪れて、畑を耕すようになってから二十年以上になるという内山さんだけれど、里の人たちのユニークな時間感覚には、いまでも不思議な思いをすることがあるという。
…この浜平の集落に暮らすさとさんはとても記憶力のよい人なのに、私の村での滞在年数だけは不思議なほどによく間違える。
「二十年ばかりではすまなかろうに」
と言うのである。
 何度か同じような会話が交わされ、ようやく私にも何故さとさんがこのことだけは間違えるのかがわかってきた。
 山里に暮らす人々は、縦軸の時間と横軸の時間という二つの時間のなかを生きている。
内山さんによれば、縦軸の時間は、「西暦とか年号であらわすことができるような過ぎゆく時間」で、「けっして戻ってくることのない不可逆的な時間」だという。その時間軸にしたがって考えると、内山さんは「二十年と少し前からこの村を訪れるようになった」のだし、さとさんは何かの勘違いをしている、ということになる。たぶん、普通に「時が流れる」というときに、人が思い浮かべるような「時間」のことなんだろう。

ところが内山さんは、村でのんびりと畑仕事や釣りをしているうちに、「確かにもうひとつの時間世界が山里には存在している」ことに気づいたのだという。
 山里の春は、私がこの村を訪れるようになった二十余年間何も変わることはなかった。冬の間凍っていた畑の土が春の陽ざしをあびて解き放たれ、畑の片隅では梅が花をつけている。それはたちまち桜の開花期を呼びさまし、山桜が霞がかかったように森の中に咲き始める。
 面白いほどに昨年と同じ春が今年もあらわれる。毎年同じように野の花が咲きみだれ、梅や桜やツツジが咲いている。
 春が訪れたとき、村人は春が戻ってきたと感じながら、それを迎え入れる。去年の春から一年が経過したと感じるのは縦軸の時間のこと、もうひとつの時間世界では、春は円を描くように一度村人の前から姿を消して、いま私たちのもとに戻ってきたのである。一年の時間が過ぎ去ったのではなく、去年と同じ春が帰ってきた。時間は円環の回転運動をしている。(一部中略)
内山さんは、こうした永遠に循環する時間のことを、「横軸の時間」と言っている。一度過ぎ去ったら戻らない「縦軸の時間」よりも、里山で過ごす人にとっては、ずっと自然な時間感覚なのだと。

(その3につづく)

★今回、トラックバックをさせていただいたブログのページです。

LJ21事務局ドタバタ日記
『サーフィンと漁業の意外な関係 と 「里という思想」』
タグ:内山 節
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2006年08月20日

永遠が回帰するところ〜『時間についての十二章』(その3)

私の故郷でもそうだけれど、内山さんが通っている「浜平の集落」でも過疎化はすすんでいて、村人の数は年々少なくなっているという。「ところが面白いことに、浜平は維持できなくなるかもしれないという危機感は、村人にはあまり強くない」と内山さんは言う。
論理的に考えるときには、村人も浜平の危機を感じている。論理的な思考のなかでは不思議に縦軸の時間があらわれてくる。そうするとあと二十年もすれば二、三人しか残らない浜平がみえてくる。ところが自然な感覚のなかでは、永遠に浜平の春が回帰し、そのなかで村の営みも回帰しつづけるような感覚が支配するのである。さとさんが数えられないほどの昔から私が村に来ていたとつい感じてしまうように。
いつも、故郷を訪れる前は、「今年はもう、昔のようじゃないかもしれない」という不安のようなものを感じる。いつまでも、あの里山が、私が暮らしていた当時の情景を残していてくれるとは思えなくて、「やがてはきっと失われるもの」として、幼かった頃の思い出をたどっていることがある。

久しぶりに帰った村を歩いてみれば、いつの間にか切り倒されてしまった桜の木もあるし、閉店してしまった雑貨屋もある。父の白髪もずいぶんと増えた。

でも、十数年前と少しも変わらない「花立て」に行き、まだまだ元気そうなおばあちゃんに、「ふららちゃん、大きなったなあ」と呼びかけられたとたん、忘れてしまっていた「永遠に循環する時間」の感覚が、ふっと蘇ってきそうな気がする。何が変わっても、何かが失われても、面白いほどに今年と同じ春や夏が、また来年もこの里山に戻ってくるに違いない、という感覚が。
タグ:内山 節
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2006年11月20日

弓術の極意と「何にもしないこと」〜河合隼雄『心の扉を開く』より

心の扉を開く心の扉を開く
河合 隼雄

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以前、『こころの生態系』を読んだとき、河合隼雄さんの「何にもしないことの大切さ」についての話が印象に残った。

私がやっている心理療法の現場では、実際に何もしないことが多く、私は自分の職業を、「何にもしないことに全力をあげる商売」と言っていますが、これも、なかなか全力をあげられないのが現状です。…

同書の中で、対談相手の中沢新一さんも言っていたように、「河合先生が言うことは、易しいようでいて、とても深いなあ」というのが第一印象だった。けれども、何だか雲をつかむような話でもあり、具体的にはよく意味が分かっていなかった、というのが正直なところだ。
こうした至らない読み手がいることを、河合先生は十分承知していたのかもしれない。「何にもしないこと」というテーマについては、あちこちで繰り返し講演されたり、書かれたりしている。たとえば、この『心の扉を開く』の中では、「何にもしないこと」は、"それ"と言い換えられていた。

われわれ心理学の世界でいいますと、"それ"はドイツ語で"エス(ES)"といいます。これはフロイトが無意識のことを指すために、"エス"と呼んだのです。エゴというか、自我に対して、われわれは、自分ではわけがわかっていると思うけれど、わけがわからないことが心の中にあります。名前をつけようがない。だからフロイトは「"それ"にしておこう」と考えた。面白いですね。

"それ"は、人にとってどのような意味を持ち、どのように心の内面に働きかけるのか。その具体例として、河合先生は『日本の弓術』という本を引用している。

オイゲン・ヘリゲルというドイツの哲学者が東北大学に来まして、日本人に哲学を教えたのですが、彼は自分も日本のことをもっと知りたいというので、すごく日本的な日本の弓を習おうと思うんですね。すると、弓の先生はすごいことを言い出すんです。「矢を放そうと思ったらいけない」、「射とうとしてはいけない」と。矢が飛んでいくのであって、あなたが射ってはいけないと言うのです。その練習をしなさいというのだけれど、ドイツ人ですから、いくら言われたようにしようと思っても矢は離れないわけですよ(笑)。
「先生、そんなことを言うけれども、離そうと思うから飛ぶわけだし、的を狙うから的に当たるわけだし。先生は的を狙ってもいない、離そうとも思っていない、それで射てるなんて言うんだったら、真夜中でも射てるんでしょうな」と、ヘリゲルが腹立ち紛れに言うのです。すると、先生は「そしたら、今晩、道場に来てください」と言うんですね。
で、道場に行ったら、ろうそくの明かりがあるのですけれども、的はぜんぜん見えません。真っ暗な中を先生が射つのです。しかし矢は見事に的に当たり、しかも二の矢を射ったら、それは一の矢の矢筈を割って刺さるのです。それをヘリゲルに見せて、先生が言うんです。
「これは私が射ったのではありません。"それ"が射ったのです。"それ"に二人で頭を下げましょう」と。"それ"の偉大さというか。わかるでしょうか。"それ"というのは、ものすごくイヤで恐ろしい面と、また、それにおまかせしたら素晴らしい面と、まるっきり違う感じがある。そういうことで言うと東洋人の方が、"それ"のポジティブな面をよく知っているといえるように思います。
それはなぜかというと、自我というものをがっちりと作って、それが外界にどう対応するかというふうに考える西洋人に比べて、東洋人は自我のつくりが曖昧なんです。自我をしっかりと守り過ぎると、こういう面白いことは起こりにくい。そのよさというのを最大限に知っている人が、こういう弓の人なんですね。(一部中略)

ここで河合先生が、「西洋」と「東洋」の対比として話しているのは、実は『こころの生態系』で話されていた、「オペレーション(操作)」と「自然のまま、何にもしないこと」との対比に等しいのだろうと思う。つまり、「何にもしないこと」とは「"それ"におまかせすること」、自我の働きをひと時抑えて、自分の心の扉を開き、その深いところをだんだん見ていくことだと、河合先生は言い換えているようだ。
もちろん、あまり深みに下りすぎてしまって元に戻れなくなれば、それは一般に「精神病」と呼ばれているような状態になる。だから、普通の人は「心の扉」を適当に閉めて、ちゃんと生きている、ということらしい。

    ***

ところで、このエピソードには後日談がある。あるテレビ局が、日本の弓道と西洋のアーチェリーとの対決という番組を作ったところ、なぜか日本の弓は大外れにはずれ、西洋の弓の方がよほどよく当たった。これを見ていたあるアメリカ人が、「僕はオイゲン・ヘリゲルを読んで、ものすごく感激したけれど、実際にテレビでやったら、西洋の方が勝っていた。あれはどういうことか」と尋ねてきたのだそうだ。

僕はこう言ったのです。「ああ、あれは、テレビに出ますと言ったときに、日本はもう負けています」と。日本の弓術は、テレビでやるもんではありません。見世物にやろうと思ったときに、その人はもう負けているんです。見世物に勝とうと思っている人が、"それ"の力を借りたりはできません。「自分で何とか当ててやろう」と思うのに違いないですよ。だから、それはほんとうの日本の弓術ではありませんと言ったら、みんな「なるほどな」と感心してましたが、どこまでほんとかわかりません(笑)。でも、わかるでしょう、その辺りが非常に難しいんです。
だからと言って、全部、西洋がいいかというと、実際にオイゲン・ヘリゲルが経験したようなことがあったのは事実だし、それを聞いたときに、僕らは「なるほど」と思うところがありますよね。"それ"におまかせする。現代に生きるとは、この両者を共に受けいれることだ、と思います。(一部中略)

河合先生はちゃかしているけれど、私もこの説明にはいたく感心してしまった。"それ"の力を借りる、ということが、「何もしないこと」の本質ならば、それは本当に大変なことだ。
"それ"には、プラスの面もマイナスの面もある。けれど、フロイト派のように、マイナスの面を押さえ込むだけではなく、プラスの面を生かしていくことも大切な課題だ、とユングは考えていた。それは、こうした武道の極意にも通じることだし、カウンセリングの技術の中でも、とても大切なポイントなのだ、と河合先生は説明している。興味深い一冊だと思う。
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2006年12月05日

アニムスを解き放つ日〜ゴッデン『ねずみ女房』より

ねずみ女房ねずみ女房
ルーマー・ゴッデン 石井 桃子 ウィリアムペン デュボア

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あるところに、ねずみ一家の女房がいた。ねずみだから、毎日代わり映えのしない暮らしが続いていて、家族の姿もみんなそっくりだった。「もしねずみが、ひいひいお祖父さんや、ひいお祖父さんの肖像を描いてもらうとしたら、それは今のネズミさんの肖像と違わないでしょう」。そんなねずみたちは、外の世界のことをまったく知らなかった。巣穴のあるウィルキンソンさんの家の中だけが、彼らの世界そのものなのだった。
ところが、このねずみ女房だけは、他のねずみとは違っていた。「いま、もっていない何かがほしい」と思う。まだ自分が知らない、何か大事なことがあるはずだ、と。
そんな女房のことを夫は不審に思うけれど、毎日チーズのことばかり考えて暮らしているネズミ父さんには、彼女の気持ちが理解できない。そんなとき、ウィルキンソンさんの家に、捕らえられた一羽のキジバトが運び込まれてくる。生まれて初めて鳥を見たねずみ女房は、恐怖に震えながらも、吸い寄せられるように鳥かごへと近づいていくのだった…

この『ねずみ女房』は、『心の扉を開く』の後半、「III 内なる異性」の章で、アニムスを描いた本として紹介されている一冊だ。
アニムス、それからアニマというのは、「魂」という意味のラテン語で、「内なる異性」を意味する語としてユングが使ったことで有名だ。自分の持っている「内なる異性」を、外界にいる誰かに投影したとき、人はたまらなくその相手のことを好きになる。何しろその人は、自分自身の「魂」のイメージを、そのまま体現してくれている人なのだから。「ユングの考えの面白いところは、恋愛という途方もないことを説明するのに、すごく納得がいくことです」と河合さんは語っている。
そんなわけで、古来アニマとアニムスは、数え切れないほどの文学作品のテーマになってきた。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』などはその典型だけれども、一見恋愛とは無縁のように思える作品の中でも、そうしたイメージが隠れたテーマになっていることがある。ゴッデンの『ねずみ女房』もその一つで、正統派の児童文学でありながら、「アニムス」が見事に描かれている傑作だ、と河合さんは言う。

行くと、ハトが何も食べないんですね。ねずみ女房が「これを食べたらどうや」と言うけど、ぜんぜん食べない。喉が渇いているからと水をやっても、水も飲まない。どうしたのかといったら、「露がほしい」と言うんですね、ハトが。ねずみ女房は、露などぜんぜん知らない。どういうことかといったら、外の世界に行ったら、森に露があると、そういう話をしてくれるわけですね。
ねずみ女房は、自分の知らない不思議な世界がほかにあって、しかも、そこをハトが飛んでいたというんですから驚きます、「飛ぶというようなことがあるんだろうか」と思います。このへんはほんとうに、異性と会って胸をときめかせて話を聞いたときとか、異性のことを思ったときの感じがよく出てますね。ぜんぜん自分の知らない世界にいて、手の届かないところにいて、どうも危ない、危ないけど行かざるを得ないという感じで行きます。行くんだけれど、夫は怒るんですね。
「なぜ、お前はそんなに窓のところばかり行ってるんだね。俺は気に食わん。ねずみの女房のおるべき場所は巣の中だ。さもなくば、パンくずを探しに行くか、俺と遊ぶかするべきだ」と言う(笑)。男が「〜するべきである」と言ってるわけです。けれども、女房はそんな"べきでないこと"を知っている。つまり、違う世界がある、絶対に違う世界に心をひかれ、そこに行くのです。(一部中略)

そのうち、家のことが忙しくなってきたねずみ女房だったけれど、暇を見つけては鳥かごに通い続けるので、夫の方もだんだん怒りが収まらなくなる。「雌ねずみが家に帰ると、こんな話をするのは残念なことですが、雄ねずみは雌ねずみの耳に噛みつきました」。思い悩むあまり、ねずみ女房は、とうとうこんな発想に至る。「ハトがあのかごの中にいるのは、やっぱりおかしいんだ。絶対にあれは外に出るべきだ」。そこで、かごの留め金に食らいついて力任せに引っ張ってみると、扉がすっと開いた。

…扉が自然に開いて、ハトがサッと出て行くわけです。それはもう、「あっ! あれが飛ぶということなんだ」と目の前でわかるのです。ここのところ、ほんとうに素晴らしいと思うのは「あれが飛ぶことなんだ! わかった!」というのと、「ハトがいなくなる」というのとが一緒なんですね。
ハトを一緒にずっとかごの中に閉じ込めていたら、うれしいような気がするけれど、飛ぶということはわからない。人間ていうのは、ほんとうに大事なことがわかるときは、絶対に大事なものを失わないと獲得できないのではないかなと僕は思います。何かを得るために何かを失わねばならない。失うのが惜しかったら、やっぱり獲得できない。しかし、その失うものが命だったり、幸福だったりするから、大変難しいんですが、彼女は飛ぶということがはっきりわかって、ハトが出て行くということになります。
 そのあとが面白いんですね。そういうことをして、あとにねずみには、孫もできるし、ひいひい孫もできるし。住んでいるんですが、このねずみ女房は、「見かけはひいひい孫たちと同じでした。でも、どこかちょっと変わっていました。他のネズミたちの知らないことを知っているからだと私は思います」。

アニマ・アニムスのイメージにも、実はいくつかの段階があって、人が成熟すると共にその意味合いがだんだん変化していくのだという。『ロミオとジュリエット』のテーマになっているのが、愛しい異性を求めてやまない思春期のアニマ・アニムスなら、この『ねずみ女房』に描かれているのは、「異性と結婚するというのではなく、むしろ異性を自由の世界に放つことによって叡智を獲得する」という、一つ突き抜けた段階のアニムスなのだ、と河合さんは結んでいる。
今後、ねずみ女房のようなアニムス・イメージを自分で経験するのは難しいかなあ、と思うけれど、そういえば「あの人は、何だかちょっと違う」という、ねずみ女房的な雰囲気を持ったおばあさんには、現に何人か会ったことがあるような気がする。
彼女たちは、それぞれの心の異性像・アニムスを通して、過去にどんな体験をしてきたのだろう。いったいどんな「魂の世界」を見、どんな「叡智」を得てきたのだろう…。ねずみ女房と、知人の顔をかわるがわるに思い浮かべながら、ふと有らぬ想像をめぐらせてしまいそうになる、そんな不思議な児童文学の一冊。
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2007年01月10日

心理学は夫婦げんかに役立つか〜『日本語と日本人の心』より

日本語と日本人の心日本語と日本人の心
大江 健三郎 河合 隼雄 谷川 俊太郎

岩波書店 2002-03
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大江健三郎に谷川俊太郎、そして河合隼雄というすごい顔ぶれのシンポジウムを収録した一冊。当日、進行役をつとめた谷川さんは、日本のシンポジウムの特色について、こんな風に言っている。

 たとえば英語だと、誰かが講演をしてそれをほとんどそのまま文字に起こしても、書き言葉として読めるというところがあるけれども、日本語の場合、講演をそのまま起こすと、書き言葉としてはほとんど読むにたえないものになることが多い。シンポジウムにもそういうところがあって、議論されている意味内容は「あとでその人たちの本を読めばいい」として、目の前の本人のしゃべり方とか、あるいは訛があるかとか、受け答えの仕方とか、一種のプレゼンスを楽しむというところがある。それはそれでぼくはすごくいいというふうに思うんです。

日本のシンポジウムでは、討論の内容よりも、本人のしゃべり方や、受け答えの仕方におもしろさがある…こうした考えからか、谷川さんは、シンポジウムの進め方を急遽「討論式」に変更して、本筋から脱線した質問をしてみたりと、やや掟破りのような進行をしている。まるで、出席者からおもしろい「プレゼンス」をどんどん引き出そうとしているみたいに。
たとえば、心理学者の河合さんに対して、谷川さんはこんな問いかけをしている。このシンポジウムのテーマは「日本語と創造性」だけれど、この「創造」という言葉が、自分には何だかしっくりこない。ここでの「創造性」とは、やはり文学とか詩のことを指しているのだろうけど、どうもそれだけではないような気がする、と。

谷川  ぼくが書いている詩よりも、むしろ河合さんが自分の全存在を賭けてクライアントの方と話をしていらっしゃる過程のほうが、はるかに「創造」という言葉にふさわしいというふうに感じているのです。そこで河合さんに、つまりなぜ文学作品というものが創造的に見えるのかということをちょっとうかがいたいのですが…

同書に収録されているインタビューでは、心理療法の「創造性」と、詩作のそれとの違いについて、谷川さん自身が分かりやすく説明されている。だから、シンポジウムの席での谷川さんは、そうした心理療法の意外な側面について、さらに河合さんの発言を引き出し、掘り下げようと、討論の流れをうまく誘導されている節がある。

河合  さきほど詩(谷川俊太郎『みみをすます』※)を読みました。私はそのときに、「この詩は私の理想です」という言い方をしましたが、自分のやっていることはなかなか思っているとおりにいかないし、そもそもなにを思ってやっているかもわからないというようなところがあります。そのときに、こういう詩を見ると、「ハハア…」とかえってわかる。こういうことを言語で表現することが創造だと思います。
 ぼくらにこういうことを言語で表現せよといわれても、やっぱりできないですね。ところが、書かれてしまうと、読んで、「ああ、これだ、わたしのやりたかったことは!」と、あとで言うことになる。だから、これが出てくるというのは創造だとすごく思います。

谷川  そうすると、相談にこられた方と向かい合っているときは、河合さんは自分の意識下にあるものをそうとう働かせて聞いていらっしゃるわけでしょう。そして、もしそこで自分がなんかうなずくなり、なんかしゃべらなくちゃいけないときは、そこのうんと深層意識のなかから出てくるものでそういうふうに反応なさると思うんですが、それでいいんでしょうか。

河合  はい、そうです。だから、いまの谷川さんの言い方をすると、たとえば、「いやあ、男は結局男なんですよ」といったら、これは当たり前のことです。しかし、その人にその場でいうということは、すごい創造的だとぼくは思っている。だから、その人にその場でそういったということは、ぼくはすごい創造活動をしているのかもしれないけれども、感激して「大発見、男は男である!」なんて書いても、あんまり読んでもらえないのじゃないでしょうか。(一部中略)

心理療法の場に限らず、意識下からひょっと出てきた何気ない言葉というのは、どうしても文章化しにくい、という面がある。こうした「無意識のうちの話し言葉」と、「意識的な文章語」との乖離にも谷川さんは注目していて、自分にとって一番関心があるのは、そんな文章語と日常語との間の「つなぎ目」なのだ、とも話されている。
このシンポジウムの場合、記録が保存されることになっていたために、出席者はそれぞれ前準備をして、草稿をベースに慎重な発言をされていたらしい。ところが、司会役の谷川さんは、そのあたりの予定調和を(いい意味で)突き崩して、二人から即興の発言(=本音?)を引き出そうと試みているように思える。
たとえば、心理療法についての話の最中に、谷川さんは不意にこう言う。

谷川 そういう経験を夫婦げんかなんかに役立てられますでしょうか。

河合  家族に対するときはまったく別です。

谷川  それは河合さんだからこそ、河合さんとしてはそうおっしゃるけれど…。

河合  いや、家族に対するときに心理療法だったら、もう殺されるんじゃないでしょうか。

谷川  そういうふうに対さずにすんでいるということでもあるのですか。もしも家族の方が少し病んだ場合には、そういう心理療法は…。

河合  家族が病むということは、もう私の生き方に完全に関係があるわけでしょうからね。私はそのなかに生きるよりしようがないですね。だから、そんなの心理療法もクソもないです(笑)。

谷川  じゃ、それはまったく応用は利かない。長いあいだの河合さんの心理療法家としての経験は、家庭内の出来事には応用は利かないということですか。

河合  ぜんぜん応用できるもんじゃないですよ。

谷川  応用できない?

河合  ぜんぜん応用できるものじゃないですね。応用しようというのがもうまちがっていますよ。だから、心理療法でもそこで生きているわけですからね。その場で生きているわけだから、家庭でもこの家庭の場で生きているのだから、もうシチュエーションがちがいますからね。だから、それは私のクライアントの方がなにかいわれて、「うんうん」と聞くときでも、うちの子供がいうたら「アホー」って言うにきまっていますわ(笑)。

大江  いまの対話をお二人のまんなかで聞いていますとね、谷川さんの質問には両面性があったと思うのです。そして河合先生は、谷川さんの質問の側面Aについてお答えになったけれども、側面Bについてお答えになっていないと思うのです。さて側面Bとはなにかというと、谷川さんは自分の生活のことを考えて、心理学は夫婦げんかに役に立つだろうかということをたずねていられるのではないか。それはどうですか。

河合  それは間接には役に立ちます(笑)。だから、私だって間接的には役立っているでしょうね。だけど、間接に役立っているというのと、それをそのままもってくるのとはちがうのです。

谷川  もちろんぼくはそのつもりでうかがったわけではないんです。いちおう間接的に…。

河合  それはさっき言ったように、ぼくらはテクニックではないでしょう。アートというのはぼくのからだの中に入っているのだから、これは分離できない、ある意味でいうと。間接的な意味では役には立っているでしょう。しかし、それはある程度テクニック的に役立てようというのはぜんぜん…。それでよろしいですか、大江さん(笑)。

大江  はい。

河合  そのうちに側面Cなんて出てくるかもしれない(笑)。

整った文章語とは一味違う、いわば日常語との間の「つなぎ目」を見ようとして、夫婦喧嘩の話を持ち出してみた。ところが、河合さんも大江さんも、あまり乗ってこなかった。残念だ、と、後のインタビューで谷川さんは述懐しているけれど、その場に居合わせた観客にとって、このワンシーンでの三人の「プレゼンス」は、なかなか興味深いものだったんじゃないかと思う。
作家と詩人と心理療法家との、「日本語と心」をめぐる半ば本気のセッションを、文句ない臨場感で楽しめる一冊。


「ほぼ日刊イトイ新聞」に、谷川俊太郎さん自身による、「みみをすます」の朗読がアップされています。
posted by ふらら at 09:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 書評 こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

「わかりきったこと」を揺るがす〜『暮らしの哲学』より

暮らしの哲学―やったら楽しい101題暮らしの哲学―やったら楽しい101題
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純粋に、気晴らしのために書かれた本というのがある。この『暮らしの哲学―やったら楽しい101題』もその一つ。
テーマは、「日常のなかの冒険」だ。歩く、水を飲む、バスを待つ、電話をかける、カフェに入る…。何でもないように思える動作や行動でも、「ちょっとしたきっかけをつくる」ことで、思いがけない驚きや発見の源になる、と著者のロジェ=ポル・ドロワさんは説明している。
もしも、どこへ行く当てもなく地下鉄に乗ったら…。真夜中にふっと目覚めたとき、そのまま家の中を歩いてみたら…。自分とは違う、別の人になりきってみたら…。冷たい水の中にいきなり潜ってみたら…。
こうした「ちょっとしたきっかけ」について、101通りのヒントを与えてくれているのがこの本だ。そうして、繰り返し勧められているのは、「かならず自分で実際にやってみる」ということ。

実践してみることによって「わかりきったこと」の実体が剥がれてくるのを実感してください。これは、哲学の歴史が始まって以来、つねに大切なことです。実際に位置をずらしてみる。横向きに歩いてみる。視点を変えてみる。はじめはごく小さな変化にすぎなくても、実際にやってみることによってひとつの事柄をまったく別の角度から見ることができるのです。

読んでいるだけでも十分に楽しめそうな内容だけれど、せっかくなので、自分でもできそうなものを探してみる。
たとえば、「寝ころんで星空を眺める」。じっと眺めているうちに、天と地がひっくりかえって、身体が高いところを漂っているような感覚が味わえる…という話は興味深いけれど、さすがに夏がくるのを待って試したほうがよさそうだ。
そこで、「同じ単語を繰り返す」というのをやってみる。身近にある物をひとつ手に取って、じっと見つめながら、その名前を繰り返し、くりかえし呼び続ける。そのうち、「物の名前から、意味が逃げ出す」ような感覚が味わえるというしかけ。
これは、効果てきめんだった。ちょっと長めの名前を選ぶと、成功率が高まるみたいだ。朝起きぬけで、まだアタマがぼうっとしている間だとさらにいい。この間も、「シナモンシュガー」と「鼻炎ソフトカプセル」で試してみたら上手くいった。

いっぽう、一読して心に残るものがあったのは、「人類を何かのまちがいと考える」というもの。期待できる効果は、「すがすがしくなる」。

 私たちは、人類は特別な存在であるとさんざん聞かされてきました。世界の中心。神の子たち。進歩のベクトル。人類の存在が、神話や宗教によってたたえられるあまり、犯した失敗、品性の卑しさ、延々と終わらない戦争、数知れぬ恥辱のほうは顧みられなくなっています。
 一度、私たちの存在意義を完全に無視してください。人類は創造主の失敗であり、生物学的な事故であると考えてみるのです。宇宙のはずれの、石ころのようにちっぽけな星で、無秩序に発展してきた人類。無分別に繁殖し、環境を破壊し、虐殺、飢饉、圧政を繰り返し、そうしていつか永久に滅びる存在。
 正当化の余地のない、非常識ではかない存在を正面から見すえてください。人類には根本的に存在理由も将来もないというこの考えを、じっと我慢する訓練をしてください。そうすると心が穏やかになってきます。なぜなら、この無意味と恐怖があるからこそ、人類が生み出した崇高なものが、このうえなく貴重に思えてくるのです。完璧な音楽、忘れられない絵画、大聖堂の栄光、詩人の涙、恋人たちの笑い声…。これらはいずれも人類という誤りから生まれたものです。そして、そのどれもがすばらしい驚きの源なのです。

「客観的に見れば、なんてことはない平凡な自分」に、改めて向き合うのは厳しいことだ。それを、わざわざ地球規模で体験してみようという、スケールの大きい想像力。そうして、その先に見えてくる、気晴らしにしてはあまりに壮大すぎる救いのイメージ…。
個人的には、この方法がけっこうマッチして、思わず胸がじんとしてしまったことを告白しておく。哲学って結構おもしろいかも、と思わせてくれる不思議な味わいの一冊。
posted by ふらら at 10:14| Comment(6) | TrackBack(1) | 書評 こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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