あるところに、ねずみ一家の女房がいた。ねずみだから、毎日代わり映えのしない暮らしが続いていて、家族の姿もみんなそっくりだった。「もしねずみが、ひいひいお祖父さんや、ひいお祖父さんの肖像を描いてもらうとしたら、それは今のネズミさんの肖像と違わないでしょう」。そんなねずみたちは、外の世界のことをまったく知らなかった。巣穴のあるウィルキンソンさんの家の中だけが、彼らの世界そのものなのだった。
ところが、このねずみ女房だけは、他のねずみとは違っていた。「いま、もっていない何かがほしい」と思う。まだ自分が知らない、何か大事なことがあるはずだ、と。
そんな女房のことを夫は不審に思うけれど、毎日チーズのことばかり考えて暮らしているネズミ父さんには、彼女の気持ちが理解できない。そんなとき、ウィルキンソンさんの家に、捕らえられた一羽のキジバトが運び込まれてくる。生まれて初めて鳥を見たねずみ女房は、恐怖に震えながらも、吸い寄せられるように鳥かごへと近づいていくのだった…
この『ねずみ女房』は、
『心の扉を開く』の後半、「III 内なる異性」の章で、アニムスを描いた本として紹介されている一冊だ。
アニムス、それからアニマというのは、「魂」という意味のラテン語で、「内なる異性」を意味する語としてユングが使ったことで有名だ。自分の持っている「内なる異性」を、外界にいる誰かに投影したとき、人はたまらなくその相手のことを好きになる。何しろその人は、自分自身の「魂」のイメージを、そのまま体現してくれている人なのだから。「ユングの考えの面白いところは、恋愛という途方もないことを説明するのに、すごく納得がいくことです」と河合さんは語っている。
そんなわけで、古来アニマとアニムスは、数え切れないほどの文学作品のテーマになってきた。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』などはその典型だけれども、一見恋愛とは無縁のように思える作品の中でも、そうしたイメージが隠れたテーマになっていることがある。ゴッデンの『ねずみ女房』もその一つで、正統派の児童文学でありながら、「アニムス」が見事に描かれている傑作だ、と河合さんは言う。
行くと、ハトが何も食べないんですね。ねずみ女房が「これを食べたらどうや」と言うけど、ぜんぜん食べない。喉が渇いているからと水をやっても、水も飲まない。どうしたのかといったら、「露がほしい」と言うんですね、ハトが。ねずみ女房は、露などぜんぜん知らない。どういうことかといったら、外の世界に行ったら、森に露があると、そういう話をしてくれるわけですね。
ねずみ女房は、自分の知らない不思議な世界がほかにあって、しかも、そこをハトが飛んでいたというんですから驚きます、「飛ぶというようなことがあるんだろうか」と思います。このへんはほんとうに、異性と会って胸をときめかせて話を聞いたときとか、異性のことを思ったときの感じがよく出てますね。ぜんぜん自分の知らない世界にいて、手の届かないところにいて、どうも危ない、危ないけど行かざるを得ないという感じで行きます。行くんだけれど、夫は怒るんですね。
「なぜ、お前はそんなに窓のところばかり行ってるんだね。俺は気に食わん。ねずみの女房のおるべき場所は巣の中だ。さもなくば、パンくずを探しに行くか、俺と遊ぶかするべきだ」と言う(笑)。男が「〜するべきである」と言ってるわけです。けれども、女房はそんな"べきでないこと"を知っている。つまり、違う世界がある、絶対に違う世界に心をひかれ、そこに行くのです。(一部中略)
そのうち、家のことが忙しくなってきたねずみ女房だったけれど、暇を見つけては鳥かごに通い続けるので、夫の方もだんだん怒りが収まらなくなる。「雌ねずみが家に帰ると、こんな話をするのは残念なことですが、雄ねずみは雌ねずみの耳に噛みつきました」。思い悩むあまり、ねずみ女房は、とうとうこんな発想に至る。「ハトがあのかごの中にいるのは、やっぱりおかしいんだ。絶対にあれは外に出るべきだ」。そこで、かごの留め金に食らいついて力任せに引っ張ってみると、扉がすっと開いた。
…扉が自然に開いて、ハトがサッと出て行くわけです。それはもう、「あっ! あれが飛ぶということなんだ」と目の前でわかるのです。ここのところ、ほんとうに素晴らしいと思うのは「あれが飛ぶことなんだ! わかった!」というのと、「ハトがいなくなる」というのとが一緒なんですね。
ハトを一緒にずっとかごの中に閉じ込めていたら、うれしいような気がするけれど、飛ぶということはわからない。人間ていうのは、ほんとうに大事なことがわかるときは、絶対に大事なものを失わないと獲得できないのではないかなと僕は思います。何かを得るために何かを失わねばならない。失うのが惜しかったら、やっぱり獲得できない。しかし、その失うものが命だったり、幸福だったりするから、大変難しいんですが、彼女は飛ぶということがはっきりわかって、ハトが出て行くということになります。
そのあとが面白いんですね。そういうことをして、あとにねずみには、孫もできるし、ひいひい孫もできるし。住んでいるんですが、このねずみ女房は、「見かけはひいひい孫たちと同じでした。でも、どこかちょっと変わっていました。他のネズミたちの知らないことを知っているからだと私は思います」。
アニマ・アニムスのイメージにも、実はいくつかの段階があって、人が成熟すると共にその意味合いがだんだん変化していくのだという。『ロミオとジュリエット』のテーマになっているのが、愛しい異性を求めてやまない思春期のアニマ・アニムスなら、この『ねずみ女房』に描かれているのは、「異性と結婚するというのではなく、むしろ異性を自由の世界に放つことによって叡智を獲得する」という、一つ突き抜けた段階のアニムスなのだ、と河合さんは結んでいる。
今後、ねずみ女房のようなアニムス・イメージを自分で経験するのは難しいかなあ、と思うけれど、そういえば「あの人は、何だかちょっと違う」という、ねずみ女房的な雰囲気を持ったおばあさんには、現に何人か会ったことがあるような気がする。
彼女たちは、それぞれの心の異性像・アニムスを通して、過去にどんな体験をしてきたのだろう。いったいどんな「魂の世界」を見、どんな「叡智」を得てきたのだろう…。ねずみ女房と、知人の顔をかわるがわるに思い浮かべながら、ふと有らぬ想像をめぐらせてしまいそうになる、そんな不思議な児童文学の一冊。