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大江健三郎に谷川俊太郎、そして河合隼雄というすごい顔ぶれのシンポジウムを収録した一冊。当日、進行役をつとめた谷川さんは、日本のシンポジウムの特色について、こんな風に言っている。
たとえば英語だと、誰かが講演をしてそれをほとんどそのまま文字に起こしても、書き言葉として読めるというところがあるけれども、日本語の場合、講演をそのまま起こすと、書き言葉としてはほとんど読むにたえないものになることが多い。シンポジウムにもそういうところがあって、議論されている意味内容は「あとでその人たちの本を読めばいい」として、目の前の本人のしゃべり方とか、あるいは訛があるかとか、受け答えの仕方とか、一種のプレゼンスを楽しむというところがある。それはそれでぼくはすごくいいというふうに思うんです。
日本のシンポジウムでは、討論の内容よりも、本人のしゃべり方や、受け答えの仕方におもしろさがある…こうした考えからか、谷川さんは、シンポジウムの進め方を急遽「討論式」に変更して、本筋から脱線した質問をしてみたりと、やや掟破りのような進行をしている。まるで、出席者からおもしろい「プレゼンス」をどんどん引き出そうとしているみたいに。
たとえば、心理学者の河合さんに対して、谷川さんはこんな問いかけをしている。このシンポジウムのテーマは「日本語と創造性」だけれど、この「創造」という言葉が、自分には何だかしっくりこない。ここでの「創造性」とは、やはり文学とか詩のことを指しているのだろうけど、どうもそれだけではないような気がする、と。
谷川 ぼくが書いている詩よりも、むしろ河合さんが自分の全存在を賭けてクライアントの方と話をしていらっしゃる過程のほうが、はるかに「創造」という言葉にふさわしいというふうに感じているのです。そこで河合さんに、つまりなぜ文学作品というものが創造的に見えるのかということをちょっとうかがいたいのですが…
同書に収録されているインタビューでは、心理療法の「創造性」と、詩作のそれとの違いについて、谷川さん自身が分かりやすく説明されている。だから、シンポジウムの席での谷川さんは、そうした心理療法の意外な側面について、さらに河合さんの発言を引き出し、掘り下げようと、討論の流れをうまく誘導されている節がある。
河合 さきほど詩(谷川俊太郎『みみをすます』※)を読みました。私はそのときに、「この詩は私の理想です」という言い方をしましたが、自分のやっていることはなかなか思っているとおりにいかないし、そもそもなにを思ってやっているかもわからないというようなところがあります。そのときに、こういう詩を見ると、「ハハア…」とかえってわかる。こういうことを言語で表現することが創造だと思います。
ぼくらにこういうことを言語で表現せよといわれても、やっぱりできないですね。ところが、書かれてしまうと、読んで、「ああ、これだ、わたしのやりたかったことは!」と、あとで言うことになる。だから、これが出てくるというのは創造だとすごく思います。
谷川 そうすると、相談にこられた方と向かい合っているときは、河合さんは自分の意識下にあるものをそうとう働かせて聞いていらっしゃるわけでしょう。そして、もしそこで自分がなんかうなずくなり、なんかしゃべらなくちゃいけないときは、そこのうんと深層意識のなかから出てくるものでそういうふうに反応なさると思うんですが、それでいいんでしょうか。
河合 はい、そうです。だから、いまの谷川さんの言い方をすると、たとえば、「いやあ、男は結局男なんですよ」といったら、これは当たり前のことです。しかし、その人にその場でいうということは、すごい創造的だとぼくは思っている。だから、その人にその場でそういったということは、ぼくはすごい創造活動をしているのかもしれないけれども、感激して「大発見、男は男である!」なんて書いても、あんまり読んでもらえないのじゃないでしょうか。(一部中略)
心理療法の場に限らず、意識下からひょっと出てきた何気ない言葉というのは、どうしても文章化しにくい、という面がある。こうした「無意識のうちの話し言葉」と、「意識的な文章語」との乖離にも谷川さんは注目していて、自分にとって一番関心があるのは、そんな文章語と日常語との間の「つなぎ目」なのだ、とも話されている。
このシンポジウムの場合、記録が保存されることになっていたために、出席者はそれぞれ前準備をして、草稿をベースに慎重な発言をされていたらしい。ところが、司会役の谷川さんは、そのあたりの予定調和を(いい意味で)突き崩して、二人から即興の発言(=本音?)を引き出そうと試みているように思える。
たとえば、心理療法についての話の最中に、谷川さんは不意にこう言う。
谷川 そういう経験を夫婦げんかなんかに役立てられますでしょうか。
河合 家族に対するときはまったく別です。
谷川 それは河合さんだからこそ、河合さんとしてはそうおっしゃるけれど…。
河合 いや、家族に対するときに心理療法だったら、もう殺されるんじゃないでしょうか。
谷川 そういうふうに対さずにすんでいるということでもあるのですか。もしも家族の方が少し病んだ場合には、そういう心理療法は…。
河合 家族が病むということは、もう私の生き方に完全に関係があるわけでしょうからね。私はそのなかに生きるよりしようがないですね。だから、そんなの心理療法もクソもないです(笑)。
谷川 じゃ、それはまったく応用は利かない。長いあいだの河合さんの心理療法家としての経験は、家庭内の出来事には応用は利かないということですか。
河合 ぜんぜん応用できるもんじゃないですよ。
谷川 応用できない?
河合 ぜんぜん応用できるものじゃないですね。応用しようというのがもうまちがっていますよ。だから、心理療法でもそこで生きているわけですからね。その場で生きているわけだから、家庭でもこの家庭の場で生きているのだから、もうシチュエーションがちがいますからね。だから、それは私のクライアントの方がなにかいわれて、「うんうん」と聞くときでも、うちの子供がいうたら「アホー」って言うにきまっていますわ(笑)。
大江 いまの対話をお二人のまんなかで聞いていますとね、谷川さんの質問には両面性があったと思うのです。そして河合先生は、谷川さんの質問の側面Aについてお答えになったけれども、側面Bについてお答えになっていないと思うのです。さて側面Bとはなにかというと、谷川さんは自分の生活のことを考えて、心理学は夫婦げんかに役に立つだろうかということをたずねていられるのではないか。それはどうですか。
河合 それは間接には役に立ちます(笑)。だから、私だって間接的には役立っているでしょうね。だけど、間接に役立っているというのと、それをそのままもってくるのとはちがうのです。
谷川 もちろんぼくはそのつもりでうかがったわけではないんです。いちおう間接的に…。
河合 それはさっき言ったように、ぼくらはテクニックではないでしょう。アートというのはぼくのからだの中に入っているのだから、これは分離できない、ある意味でいうと。間接的な意味では役には立っているでしょう。しかし、それはある程度テクニック的に役立てようというのはぜんぜん…。それでよろしいですか、大江さん(笑)。
大江 はい。
河合 そのうちに側面Cなんて出てくるかもしれない(笑)。
整った文章語とは一味違う、いわば日常語との間の「つなぎ目」を見ようとして、夫婦喧嘩の話を持ち出してみた。ところが、河合さんも大江さんも、あまり乗ってこなかった。残念だ、と、後のインタビューで谷川さんは述懐しているけれど、その場に居合わせた観客にとって、このワンシーンでの三人の「プレゼンス」は、なかなか興味深いものだったんじゃないかと思う。
作家と詩人と心理療法家との、「日本語と心」をめぐる半ば本気のセッションを、文句ない臨場感で楽しめる一冊。
※「ほぼ日刊イトイ新聞」に、谷川俊太郎さん自身による、「みみをすます」の朗読がアップされています。






面白いですね。
これだけ読んでも、笑いました。
学校の先生が自分の子供を教えられないとか、病院の先生が身内は手術できないとか聞きますが、河合さんからもあんな答えが返ってくるとは・・・。(笑)
で、そこで大江さんがつっ込みを入れる・・・。
この会話についていくには、私はじっくり読まないと・・・。(笑)
>河合さんからもあんな答えが返ってくるとは・・・。(笑)
そうですね。まさか! という感じです。
どんな立派な人でも、身内のことになると
やっぱり人間味が出てくるんだなあ、と納得する部分もありで…
おもしろいですよね。