2007年02月04日

「本」に手触りがなくなるとき〜『ウェブ人間論』より

ウェブ人間論ウェブ人間論
梅田 望夫 平野 啓一郎

新潮社 2006-12-14
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近いうちに、紙の本はなくなって、あらゆる情報は端末の上で読まれるようになる…そんな話を初めて聞いたのは、いつのことだったろう。
確かあれは、今から10年ばかり前、私が工芸村に通っていた頃のことだった。長電話の最中に、友人のHさんが、ふとこんなことを言ったのだ。
「伝統工芸を習いに行った人に言うのはなんやけど…和紙どころか、紙そのものがなくなるのも、もう時間の問題やと思うよ」
「えー、なんで?」
あんまり唐突な言葉だったので、私は思わず言い返した。
「本はなくならへんよ。普通の読書と、ワープロの画面を読むのとは全然違うやん」
「でも、今の日本のパルプって、熱帯雨林を乱開発して作られてるやろ」
と、Hさんは言った。
「東南アジアのひどい状態考えたら、今のままの紙の消費量が維持できるはずない。今よりもっと便利な端末ができたら、たぶん本はなくなっていくと思う」
それは、かなりの衝撃だった。今から10年前といえば、まだ読書端末どころか、携帯やインターネットすら普及していなかった頃だ。紙の匂いとか、ページをめくるときの手触りとか、そういった「読書らしさ」が全て失われる時代がくるなんて、当時の私には信じられないことだった。

あれから10年がたった今、Hさんが言っていた「もっと便利な端末」が、世の中にはずいぶん出回るようになった。携帯で読める本も増えているし、専用の読書端末もずいぶん性能が上がっているらしい。著作権の切れた本なら、PDFファイルで全ページ丸ごとダウンロードできたりする。
それでも、今のところ、まだ紙の本がなくなる様子はない。どうしてだろう。本好きとしては、この成り行きを素直に喜んでもいいところかもしれないけれど、一方では腑に落ちない思いもあって、何だかややこしい心境だ。
本当に、紙の本は今後もなくならないんだろうか。ネットに行けば、あらゆる情報が無料で手に入るのに、どうして私たちは、わざわざ本を買って読むんだろう。
そうした疑問に、一つの答えをくれたのが「ウェブ人間論」だった。

平野  最近、一方で、本の運命について考えるんです。ある程度の期間はネット上で読むものと紙媒体が並存するけれど、最終的には紙が消える、いや、紙はやっぱり残るんだという議論がずっとあります。(中略)例えばですけど、紙で読むことにあえてこだわるなら、簡易製本機のようなものが普及するとか、プリンターがダウンロードした小説を、本らしく綴じられるように両面印刷してくれるといった機能を備えるようになるとかすれば、出版社から直にデータだけ買って必要な箇所だけ自分で製本して読むという時代もくるのではないかと思うんです。それが、アマゾンで本を買って郵送でモノが届くのを待つという時代の次なのではないでしょうか。

作家として当然のことかもしれないけど、平野さんは、この問題に相当なこだわりを持っているようだ。「本に囲まれて育った世代」の一人であり、紙の本への愛着が深いだけに、大胆な予想があえて前面に出てしまう、といった感じだ。けれども、そんな平野さんの問いかけに、梅田さんはあっさり答えている。

梅田  実は、僕はあまりそう思ってないんです。本が「永遠に不滅」かどうかは難しいけれど、相当長く生き残るメディアだと思います。検索性が大事な、ITの力を借りて読みたい研究書や百科辞典や全集はすぐに紙ではなくデータで読むという方向に向かうでしょう。でもそれ以外の、「最初の一行目から最後の一行まで順に読んでもらいたい」というタイプの本は、今と変わらず残るんじゃないでしょうか。

でも、例えばレコードがCDに取って代わったように、読書端末がもっと普及すれば、誰も紙の本なんて買わなくなるんじゃないか、と平野さんは言う。すると、梅田さんはこう答える。CDの時とは違って、出版関係者の誰も、紙が消えてしまうことは望んでいない、と。

梅田  それと、音楽に比べて、本には明らかに紙の優位というのがあって、ただのコンテンツではない。本という形にパッケージした時に、紙という材質ゆえの付加価値が生じます。一行目から最後までを順に読んでいきやすいとか、一覧しやすいとか、保存しやすいとか、書き込みがしやすいとか。

梅田さんのこうした考えを支えているのは、一つには「ウェブ進化論」を出したときの個人的な体験なのだという。梅田さんは有名なブロガーでもあるけれど、「ウェブ進化論」を出版することで、ネット上とはまた違った幅広い読者層を得ることができ、「ああ、本というのはすごいメディアなんだな」と、改めて実感したのだそうだ。
梅田さんのオプティミズムな考え方には、読んでいてほっとするものがあった。パッケージでもあり、コンテンツでもある本の有用性や、コストパフォーマンスの高さ…という理由付けには、「ああ、そういうことだったのか」と、目からウロコが落ちる思いがした。紙の本は、まだ当分のあいだ姿を消すことはないのかもしれない。

個人的には、本に代わるメディアとして、ダウンロードしたデータファイルはあまりに味気ないと思う。もちろん、「本」に何を求めるかは、人によっても、場合によってもずいぶん違ってくるんだろう。即時性が大切な情報ソースなのか、それとも、長く手元に置いておきたい愛着の対象なのか…それぞれが必要としている「本」のあり方を、選んで手に入れるのが当たり前になったとき、紙の本は一つのオプションにすぎなくなるのかもしれない。
posted by ふらら at 10:11| Comment(4) | TrackBack(0) | 書評 情報・ウェブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月13日

梅見に行ってきました

今週の「よんどこ」はお休みです。

この連休中に、京都の北野天満宮へ梅見に行ってきました。
今は、ちょうど「早咲きの見ごろ」だそうです。

IMG_0026.JPG

天神さん名物の、角つき狛犬も梅の下。

IMG_0009.JPG

おみくじも引いてみましたが、凶でした。ためしにもう一度引いてみると、今度は大吉が出ました。間を取って、まあ吉といったところでしょうか(笑)

「とっとこ」にも関連写真をアップしていますので、
どうぞご覧ください。
タグ:梅見
posted by ふらら at 10:58| Comment(2) | TrackBack(0) | お知らせなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

「わかりきったこと」を揺るがす〜『暮らしの哲学』より

暮らしの哲学―やったら楽しい101題暮らしの哲学―やったら楽しい101題
ロジェ=ポル ドロワ 鈴木 邑 Roger‐Pol Droit

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純粋に、気晴らしのために書かれた本というのがある。この『暮らしの哲学―やったら楽しい101題』もその一つ。
テーマは、「日常のなかの冒険」だ。歩く、水を飲む、バスを待つ、電話をかける、カフェに入る…。何でもないように思える動作や行動でも、「ちょっとしたきっかけをつくる」ことで、思いがけない驚きや発見の源になる、と著者のロジェ=ポル・ドロワさんは説明している。
もしも、どこへ行く当てもなく地下鉄に乗ったら…。真夜中にふっと目覚めたとき、そのまま家の中を歩いてみたら…。自分とは違う、別の人になりきってみたら…。冷たい水の中にいきなり潜ってみたら…。
こうした「ちょっとしたきっかけ」について、101通りのヒントを与えてくれているのがこの本だ。そうして、繰り返し勧められているのは、「かならず自分で実際にやってみる」ということ。

実践してみることによって「わかりきったこと」の実体が剥がれてくるのを実感してください。これは、哲学の歴史が始まって以来、つねに大切なことです。実際に位置をずらしてみる。横向きに歩いてみる。視点を変えてみる。はじめはごく小さな変化にすぎなくても、実際にやってみることによってひとつの事柄をまったく別の角度から見ることができるのです。

読んでいるだけでも十分に楽しめそうな内容だけれど、せっかくなので、自分でもできそうなものを探してみる。
たとえば、「寝ころんで星空を眺める」。じっと眺めているうちに、天と地がひっくりかえって、身体が高いところを漂っているような感覚が味わえる…という話は興味深いけれど、さすがに夏がくるのを待って試したほうがよさそうだ。
そこで、「同じ単語を繰り返す」というのをやってみる。身近にある物をひとつ手に取って、じっと見つめながら、その名前を繰り返し、くりかえし呼び続ける。そのうち、「物の名前から、意味が逃げ出す」ような感覚が味わえるというしかけ。
これは、効果てきめんだった。ちょっと長めの名前を選ぶと、成功率が高まるみたいだ。朝起きぬけで、まだアタマがぼうっとしている間だとさらにいい。この間も、「シナモンシュガー」と「鼻炎ソフトカプセル」で試してみたら上手くいった。

いっぽう、一読して心に残るものがあったのは、「人類を何かのまちがいと考える」というもの。期待できる効果は、「すがすがしくなる」。

 私たちは、人類は特別な存在であるとさんざん聞かされてきました。世界の中心。神の子たち。進歩のベクトル。人類の存在が、神話や宗教によってたたえられるあまり、犯した失敗、品性の卑しさ、延々と終わらない戦争、数知れぬ恥辱のほうは顧みられなくなっています。
 一度、私たちの存在意義を完全に無視してください。人類は創造主の失敗であり、生物学的な事故であると考えてみるのです。宇宙のはずれの、石ころのようにちっぽけな星で、無秩序に発展してきた人類。無分別に繁殖し、環境を破壊し、虐殺、飢饉、圧政を繰り返し、そうしていつか永久に滅びる存在。
 正当化の余地のない、非常識ではかない存在を正面から見すえてください。人類には根本的に存在理由も将来もないというこの考えを、じっと我慢する訓練をしてください。そうすると心が穏やかになってきます。なぜなら、この無意味と恐怖があるからこそ、人類が生み出した崇高なものが、このうえなく貴重に思えてくるのです。完璧な音楽、忘れられない絵画、大聖堂の栄光、詩人の涙、恋人たちの笑い声…。これらはいずれも人類という誤りから生まれたものです。そして、そのどれもがすばらしい驚きの源なのです。

「客観的に見れば、なんてことはない平凡な自分」に、改めて向き合うのは厳しいことだ。それを、わざわざ地球規模で体験してみようという、スケールの大きい想像力。そうして、その先に見えてくる、気晴らしにしてはあまりに壮大すぎる救いのイメージ…。
個人的には、この方法がけっこうマッチして、思わず胸がじんとしてしまったことを告白しておく。哲学って結構おもしろいかも、と思わせてくれる不思議な味わいの一冊。
posted by ふらら at 10:14| Comment(6) | TrackBack(1) | 書評 こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月26日

『言葉のなかに風景が立ち上がる』

言葉のなかに風景が立ち上がる言葉のなかに風景が立ち上がる
川本 三郎

新潮社 2006-12-27
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「境界線上にある風景」が好きだと、川本三郎さんは言う。普段の生活から少し遠ざかった、けれども全くの別世界というわけでもない、「こちらと向う」の中間にある、グレーゾーンの風景が。

 北海道の富良野に移り住み、廃校になった小学校で暮らしている孤高の画家、奥田修一さんに、「どんな風景に惹かれるか」と聞いたところ、「畑と森がぶつかりあうようなところ、人間の手が加わったところと、手があまり加わっていないところが接した中間の風景」と答えられた。
 ああ、まさにそれだ、自分が好きな風景もと思った。絶海の孤島や人を寄せつけない秘境の山ではない。大草原のなかに地平線に向かって一本道がどこまでも伸びている。麦畑の向こうに鉄道の線路が走って、そこを列車が走ってゆく。海辺にぽつんとひとつ灯台が立っている。エドワード・ホッパーやアンドリュー・ワイエスが描いた、そんな風景にこそ心惹かれる。
 現実の暮らしをしている人間、日常の営みを大事にしている人間が、ふと空を見上げる時に感じるような透き通った気持が、中景という境界線上の風景を引き寄せる。(一部中略)

Edward Hopper_lighthousehill.jpg

普段の暮らしの中から、ふとしたきっかけで現れる「中間の風景」を求めて、現代作家の小説を「散策」する…そんな試みから生まれたのがこの一冊だ。

本書のなかで、川本さんが最初に取りあげているのは『鳥たちの河口』。長崎の海辺の町、諫早町で育ち、そこを舞台にした小説を書き続けたという作家、野呂邦暢さんの作品だ。

地方都市の放送局に勤めるカメラマンだった主人公は、ある不幸な出来事から退職を余儀なくされる。放送局に行かなくなった「男」が惹きつけられたのは、町はずれにある河口と、その先に広がる海だった。
 
秋から冬にかけて河口には、シベリアあたりから渡り鳥が飛んでくる。広大な葦の原が鳥たちを外敵から守ってくれる。男は毎日のように河口に出かけては、鳥たちを観察する。日常生活から離れた男のところに、静かな風景がゆっくりと近づいてくる。男と風景との交感が始まる。
 ある日、男は、焚火をするために浜辺で流木を集めている時に、見なれない黒い鳥が波打際に横たわっているのを見つける。銃弾で撃たれている。男は、鳥を家に連れ帰り、傷の手当てをしてやる。図鑑で調べ、中央アジアの広い内海に棲むカスピアン・ターンという名の珍しい鳥だと知る。冬季には、インドやタイへ渡る。その鳥がコースを外れて日本の町の干潟にやってきた。
 地球環境の変化で方向感覚がおかしくなったらしい。男は、群れから離れ傷ついた鳥に自分の姿を重ねたように必死に介抱してやる。二十日ほどたって、鳥はなんとか体力を回復する。妻と共に男は、鳥を空へ返してやる。男もまたこれから新しい職を見つけなければならないだろう。

この河口は、野呂さんがよく散策に出かけた諫早町の河口がモデルになっているのだそうだ。カスピアン・ターンを救った主人公は、河口に広がる干潟が、埋め立て計画によっていずれは消えてしまうことを知っていた。それは、野呂さんが愛してやまなかった有明海の干潟が、2000年に消失してしまった事実と重なっている。

消えゆく風景だからこそ、男は、挽歌を歌うように、そのなかに身を溶け込ませていった。そして野呂邦暢は、自分だけの地図を作ったように、小説のなかに、河口の風景を永遠に封じ込めたのである。

もう随分と長い間、小説らしい小説を読んでいなかった私は、この本の中で紹介されている作家の大半を知らなかった。現代作家が描く「風景」の魅力を、改めて教えてくれたこの本は、それこそ、懐かしい風景に出会った時のように、貴重なひとときを私に与えてくれた。これからの読書の指南書となりそうな、深みのある一冊。
posted by ふらら at 10:46| Comment(6) | TrackBack(0) | 書評 ことば・詩・物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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