2007年01月02日

新年のごあいさつ

本ブログをご覧の皆さま、明けましておめでとうございます。
お正月はいかがお過ごしでしょうか。

ふらら家は里帰りをして、のんびりと2007年のスタートを切りました。ご馳走三昧のおかげで、それぞれ1キロほど太った状態で帰宅。特に私は冷え性なので、手足の血行改善のためにも、この調子でもっと肉付きを良くしようと企てています(笑)
お世話になったK川とM倉のみなさま、楽しいひと時をどうもありがとうございました。m(_ _)m

この1年も、また相変わらずの乱読を続けていくことになりそうです。やや不定期な更新になるかもしれませんが、週に数回のアップは続けたいと思っています。気の向いた折にでも、そっとページを開いてやってくださいませ。

どうぞよろしくお願いします。
posted by ふらら at 21:14| Comment(4) | TrackBack(0) | お知らせなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月04日

街の「ゆるみ」と粋な偶然〜『「ふと…」の芸術工学』より

「ふと…(セレンディピティ)」の芸術工学「ふと…(セレンディピティ)」の芸術工学
赤瀬川 原平 佐々木 正人 宮本 隆司

工作舎 1999-09
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このブログには、『とっとこロード』という名前の姉妹ブログがある。近所を「とっとこ」散歩しながら、見かけた風景を写真に「撮っとこ」…というお気楽な趣旨の日記なのだけど、開設当初には、それなりにお手本にしようとしていたモデルがあった。1980年代に大流行した、あの赤瀬川原平さんの「路上観察学会」と、そこから生まれた「超芸術トマソン」だ。
ご存知の人も多いと思うけれど、この「路上観察学会」の主な目的は、建物の一部なのにどうにも使い道のなさそうな「無用の長物」を探し、写真を撮ってコレクションすることだ。あるとき、赤瀬川さんらが、四谷のある家に「どこにもつながっていないコンクリート階段」があるのを発見したのが、この路上観察を始める契機になったらしい。

階段というのは上ればそこに何かの目的がある。この階段では登ったところに窓しかないので、ここにある窓を覗くのが目的ということになりますが、そのためだけにこれほど立派な階段を作るだろうか。
よくよく考えると、この世の中にいらないものなんて作られてはいないのだと気づきました。あえて無用な階段を作ることはありえないわけで、常識的に考えれば以前はこの階段の上に入口があった。ところがその入口が不用になって窓になってしまった。本来は壊すべき階段だけど、この家の敷地内ですから、壊すよりもとっておいてもかまわないだろうと残っていた。(一部中略)

無用なのに、やたらと立派なまま保存されているこの「四谷の純粋階段」に、すっかり魅了された赤瀬川さんたちは、こうした無用の長物の数々を「トマソン」と名付け※、鑑賞の対象にするようになったのだという。

「トマソン」というものを発見したのは、もともと絵が好きで、見ることが好きだったからではないかと分析しています。いつか描くのに幻滅してしまったので、もっとおもしろいものを見ようとした。単純な動機です。ぼくらの住んでいる街は人間が作ったものではあるのですが、その全部を完全につくったわけではなくて、家でも道路でも「ゆるみ」がそなわっているものです。しかもその「ゆるみ」は自然にできたものです。それを見ていくと頭では考えられない発見があって、実におもしろい。しだいにやみつきになりました。

長年の研究を通して、「フェイス・ハンティング」「原爆タイプ」「路上植物園」など、さまざまなジャンルが開拓されていったというトマソンだけれど、中でも主要なポジションを占めているのが、貼紙や看板の類のようだ。美しく整備されているように見える街角にも、実は上質なトマソンがいくつも存在していることを、赤瀬川さんは教えてくれている。

じつに深い作品があります。町内の表示板に「夜の中からゴミを出さないでください」の貼紙。当然「夜のうちから…」という意味なんでしょうが、普通こういう場合「中」という字は使わない。まるで夜という物体がそこにあって、その中に手をつっこんでゴミを出していくヤツがいるので困る、というような不思議なイメージがわいてきてしまいます。一種のブラック・ホールのような、塊としての夜があったらひじょうに便利と思う。「夜」を道路のわきに置いておいて、その中にゴミを放りこめば、どんどんゴミが入っていく。時間の空間化といいますか。
 芸術家というのは、通常こういうことを一生懸命考えているんです。詩人なんてのは、こういうことをなんとかひねりだそうとしながら、なかなかできずに苦労しているんです。それを町内会の人が無意識にやってしまった。本人は気づいていないので作ったことにはならないけど、無意識に作ったものをぼくらの意識が見つけてしまった。そしてついに金がゴミとなる! 山の手の高級住宅地で見つけた貼紙、いや貼板です(下図)。

「東京・広尾で見つけた、燃やせないゴミについて」(同書p.37より)

この『「ふと…」の芸術工学』は、神戸芸術工科大学レクチャーシリーズの一冊で、「ふと、思いがけない形で浮かんでくるアイデア」について、真面目に考えることをテーマにした連続講義が収録されている。その第1回目の講師として登場するのが赤瀬川さんで、「ふと…」の好例として「トマソン」を解説しているというのだから、何ともうらやましい限りだ。『老人力』を読んだ、という人にもお勧めの一冊。

※「トマソン」命名の由来は、助っ人外人として巨人に入団したものの、三振の山を築いて「扇風機」の異名をとったゲーリー・トマソン選手らしい。
posted by ふらら at 10:38| Comment(6) | TrackBack(0) | 書評 セレンディピティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月10日

心理学は夫婦げんかに役立つか〜『日本語と日本人の心』より

日本語と日本人の心日本語と日本人の心
大江 健三郎 河合 隼雄 谷川 俊太郎

岩波書店 2002-03
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大江健三郎に谷川俊太郎、そして河合隼雄というすごい顔ぶれのシンポジウムを収録した一冊。当日、進行役をつとめた谷川さんは、日本のシンポジウムの特色について、こんな風に言っている。

 たとえば英語だと、誰かが講演をしてそれをほとんどそのまま文字に起こしても、書き言葉として読めるというところがあるけれども、日本語の場合、講演をそのまま起こすと、書き言葉としてはほとんど読むにたえないものになることが多い。シンポジウムにもそういうところがあって、議論されている意味内容は「あとでその人たちの本を読めばいい」として、目の前の本人のしゃべり方とか、あるいは訛があるかとか、受け答えの仕方とか、一種のプレゼンスを楽しむというところがある。それはそれでぼくはすごくいいというふうに思うんです。

日本のシンポジウムでは、討論の内容よりも、本人のしゃべり方や、受け答えの仕方におもしろさがある…こうした考えからか、谷川さんは、シンポジウムの進め方を急遽「討論式」に変更して、本筋から脱線した質問をしてみたりと、やや掟破りのような進行をしている。まるで、出席者からおもしろい「プレゼンス」をどんどん引き出そうとしているみたいに。
たとえば、心理学者の河合さんに対して、谷川さんはこんな問いかけをしている。このシンポジウムのテーマは「日本語と創造性」だけれど、この「創造」という言葉が、自分には何だかしっくりこない。ここでの「創造性」とは、やはり文学とか詩のことを指しているのだろうけど、どうもそれだけではないような気がする、と。

谷川  ぼくが書いている詩よりも、むしろ河合さんが自分の全存在を賭けてクライアントの方と話をしていらっしゃる過程のほうが、はるかに「創造」という言葉にふさわしいというふうに感じているのです。そこで河合さんに、つまりなぜ文学作品というものが創造的に見えるのかということをちょっとうかがいたいのですが…

同書に収録されているインタビューでは、心理療法の「創造性」と、詩作のそれとの違いについて、谷川さん自身が分かりやすく説明されている。だから、シンポジウムの席での谷川さんは、そうした心理療法の意外な側面について、さらに河合さんの発言を引き出し、掘り下げようと、討論の流れをうまく誘導されている節がある。

河合  さきほど詩(谷川俊太郎『みみをすます』※)を読みました。私はそのときに、「この詩は私の理想です」という言い方をしましたが、自分のやっていることはなかなか思っているとおりにいかないし、そもそもなにを思ってやっているかもわからないというようなところがあります。そのときに、こういう詩を見ると、「ハハア…」とかえってわかる。こういうことを言語で表現することが創造だと思います。
 ぼくらにこういうことを言語で表現せよといわれても、やっぱりできないですね。ところが、書かれてしまうと、読んで、「ああ、これだ、わたしのやりたかったことは!」と、あとで言うことになる。だから、これが出てくるというのは創造だとすごく思います。

谷川  そうすると、相談にこられた方と向かい合っているときは、河合さんは自分の意識下にあるものをそうとう働かせて聞いていらっしゃるわけでしょう。そして、もしそこで自分がなんかうなずくなり、なんかしゃべらなくちゃいけないときは、そこのうんと深層意識のなかから出てくるものでそういうふうに反応なさると思うんですが、それでいいんでしょうか。

河合  はい、そうです。だから、いまの谷川さんの言い方をすると、たとえば、「いやあ、男は結局男なんですよ」といったら、これは当たり前のことです。しかし、その人にその場でいうということは、すごい創造的だとぼくは思っている。だから、その人にその場でそういったということは、ぼくはすごい創造活動をしているのかもしれないけれども、感激して「大発見、男は男である!」なんて書いても、あんまり読んでもらえないのじゃないでしょうか。(一部中略)

心理療法の場に限らず、意識下からひょっと出てきた何気ない言葉というのは、どうしても文章化しにくい、という面がある。こうした「無意識のうちの話し言葉」と、「意識的な文章語」との乖離にも谷川さんは注目していて、自分にとって一番関心があるのは、そんな文章語と日常語との間の「つなぎ目」なのだ、とも話されている。
このシンポジウムの場合、記録が保存されることになっていたために、出席者はそれぞれ前準備をして、草稿をベースに慎重な発言をされていたらしい。ところが、司会役の谷川さんは、そのあたりの予定調和を(いい意味で)突き崩して、二人から即興の発言(=本音?)を引き出そうと試みているように思える。
たとえば、心理療法についての話の最中に、谷川さんは不意にこう言う。

谷川 そういう経験を夫婦げんかなんかに役立てられますでしょうか。

河合  家族に対するときはまったく別です。

谷川  それは河合さんだからこそ、河合さんとしてはそうおっしゃるけれど…。

河合  いや、家族に対するときに心理療法だったら、もう殺されるんじゃないでしょうか。

谷川  そういうふうに対さずにすんでいるということでもあるのですか。もしも家族の方が少し病んだ場合には、そういう心理療法は…。

河合  家族が病むということは、もう私の生き方に完全に関係があるわけでしょうからね。私はそのなかに生きるよりしようがないですね。だから、そんなの心理療法もクソもないです(笑)。

谷川  じゃ、それはまったく応用は利かない。長いあいだの河合さんの心理療法家としての経験は、家庭内の出来事には応用は利かないということですか。

河合  ぜんぜん応用できるもんじゃないですよ。

谷川  応用できない?

河合  ぜんぜん応用できるものじゃないですね。応用しようというのがもうまちがっていますよ。だから、心理療法でもそこで生きているわけですからね。その場で生きているわけだから、家庭でもこの家庭の場で生きているのだから、もうシチュエーションがちがいますからね。だから、それは私のクライアントの方がなにかいわれて、「うんうん」と聞くときでも、うちの子供がいうたら「アホー」って言うにきまっていますわ(笑)。

大江  いまの対話をお二人のまんなかで聞いていますとね、谷川さんの質問には両面性があったと思うのです。そして河合先生は、谷川さんの質問の側面Aについてお答えになったけれども、側面Bについてお答えになっていないと思うのです。さて側面Bとはなにかというと、谷川さんは自分の生活のことを考えて、心理学は夫婦げんかに役に立つだろうかということをたずねていられるのではないか。それはどうですか。

河合  それは間接には役に立ちます(笑)。だから、私だって間接的には役立っているでしょうね。だけど、間接に役立っているというのと、それをそのままもってくるのとはちがうのです。

谷川  もちろんぼくはそのつもりでうかがったわけではないんです。いちおう間接的に…。

河合  それはさっき言ったように、ぼくらはテクニックではないでしょう。アートというのはぼくのからだの中に入っているのだから、これは分離できない、ある意味でいうと。間接的な意味では役には立っているでしょう。しかし、それはある程度テクニック的に役立てようというのはぜんぜん…。それでよろしいですか、大江さん(笑)。

大江  はい。

河合  そのうちに側面Cなんて出てくるかもしれない(笑)。

整った文章語とは一味違う、いわば日常語との間の「つなぎ目」を見ようとして、夫婦喧嘩の話を持ち出してみた。ところが、河合さんも大江さんも、あまり乗ってこなかった。残念だ、と、後のインタビューで谷川さんは述懐しているけれど、その場に居合わせた観客にとって、このワンシーンでの三人の「プレゼンス」は、なかなか興味深いものだったんじゃないかと思う。
作家と詩人と心理療法家との、「日本語と心」をめぐる半ば本気のセッションを、文句ない臨場感で楽しめる一冊。


「ほぼ日刊イトイ新聞」に、谷川俊太郎さん自身による、「みみをすます」の朗読がアップされています。
posted by ふらら at 09:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 書評 こころ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月15日

現代のアトムと「不気味の谷」〜『人間型ロボット ヒューマノイドの挑戦』より

Atom photo03.gif土曜日の夜、何となくNHKの「サイエンスZERO」を見ていた。最新の恐竜学説が紹介されていたりして、古生物ファンの主人もお気に入りの番組なのだけど、その日の特集は「ヒューマノイド(人間型ロボット)」だった。
20年前、私が子供だった頃のヒューマノイドのイメージといえば、リバイバルで放映されていたアニメの『鉄腕アトム』そのものだった。もちろん、実際の人型ロボットの研究は、当時まだ黎明期で、二本足で歩くことさえできないプロトタイプの映像を、ニュースなどでよく見かけたものだ。
それが、あのアシモの劇的な登場以来、「歩くロボット」はすでに当たり前。最近のヒューマノイドはますます進化していて、人間そっくりの外見を持ったロボットや、相手に合わせて会話をするロボットも開発されているらしい。どうすればより人間らしくなるのか、人にとって親しみやすいロボットを作るにはどうすればいいか…それが、今のロボット工学の関心の的なのだという。
「サイエンスZERO」で紹介されていたのも、そんなロボットの「親しみやすさ」についての実験だった。登場したのは、相手に反応して身動きしたり、首をかしげたりするロボット。外見もマスコットみたいにかわいらしくて、確かに「親しみやすい」。
ところが、実際にコミュニケーションしてみると、「どこか不自然さを感じる」と言った人がいた。「こちらの動きに100%追従されると、かえって機械的な感じがする」。
そこで、反応の度合いを80%に下げてみると、「こっちの方が自然。ちょっと気まぐれな所もあった方が、生き物らしい感じがする」と、逆に好評だったという。
ああ、これって「不気味の谷」の話だな、と思った。最近読んだ『「ふと…」の芸術工学』という本で、森政弘さんというロボット工学の博士が、よく似た話をしていたのだ。

(人間型)ロボットでは「親愛感」とか「親和感」というものが重要です。それで、かたちの上で、人間に近づけていく努力をしたわけです。私たちは単純に、外見を人間に近づければ近づけるほど親和感が増すとばかり思っていたところ、その途中でたいへんなことに出くわしたのです。
人間に似せよう、人間に似せようと、努めていったところ、ある程度似てくると、気味悪さが生じることに気がつきました。機械みたいなロボットだったら気味悪くもないが、人間型のロボットは気味が悪い。たとえば、蝋人形というのは、気味が悪いでしょ。目がすわっていて、死人を見ているような気分になります。
ある程度似てくると、にわかに気味悪くなる。外見についてだけでなく、声についてもそうです。かなり人間の声に似てきているのに、それがちょっとずれるだけでも変に感じるということに気づきました。
このことをグラフで表すべく、横軸に類似度を、縦軸に親和感を取りますと、図※のようになります。曲線は一様に右上がりで上がっていくのではなく、100%の類似度、つまり完全に似る点の手前で曲線は深い谷を作ってしまうのです。私はこの谷を称して「不気味の谷」と呼ぶことにしました。この谷底は深く、ゼロを越えてマイナスのところにまで達しているのです。マイナスの親和感とは不気味ということです。

※参照 「不気味の谷現象」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

確かに、リアルに作りこまれた最新型のヒューマノイドには、文楽人形に似た「不気味さ」があるような気がする。それなら、いっそ「不気味の谷」を突き抜けて、100%リアルなヒューマノイドを追求しよう…という研究もあるみたいだけれど、それはどうなのかなあ、と思う。
「サイエンスZERO」には、まだ開発途上のロボットもたくさん登場していた。中の機械がむき出しだったりして、いかにも「プロトタイプ」という姿なのだけれど、そこへ研究室の人たちが、とりあえずピンポン玉の目玉をつけてみたり、口紅をぬったりして「擬人化」している。
見た目のおかしさはともあれ、現場の人たちの愛着がにじみ出ているような、そうした手作りの「親和感」の方が、何だかほほえましくて好感が持てる…と思ってしまうのだから、人の感覚って不思議なものだ。

NHKサイエンスZERONHKサイエンスZERO
NHK科学環境番組部

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2007年01月22日

安らぎの空間、憎しみの空間〜東宏治『ムーミンパパの「手帖」』より

ムーミンパパの「手帖」―トーベ・ヤンソンとムーミンの世界ムーミンパパの「手帖」―トーベ・ヤンソンとムーミンの世界
東 宏治

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ムーミンといえば、あの日本版アニメがすぐに思い浮かぶ。故・岸田今日子さんの個性的な声が、ほのぼのとしたムーミンのイメージにぴったりで、再放送があるたびに何度も見ていた大好きな番組だった。
けれど、本書で紹介されているのはトーベ・ヤンソンの原作、北欧の澄んだ空気を漂よわせた「ムーミントロール・シリーズ」の方だ。

ヤンソンは、フィンランドのヘルシンキ生まれ。彫刻家の父親とイラストレーターの母親という二人の芸術家の元で育った。暖かいストーブの前で、よくおとぎ話を聞かせてくれたという母親。一方、嵐の海が大好きで、ヤンソンを孤島へ連れて行っては、冒険ごっこを楽しんだという父親…。そんな『安らぎと刺激の両方』に満ちた少女時代の思い出が、ヤンソン作品にはふんだんに生かされている、と東さんは指摘している。

実際、ヤンソンの作品には、ほのぼのとしたあたたかさ、やさしさ、思いやり、おおらかさとともに、同時に残酷さや辛辣さ、意地悪さ、いじけなどもふんだんにあるのであって、テレビアニメのムーミンは、そうしたいわば毒のない分、原作の持つ深みを失っている。(『ムーミンパパの「手帖」』)

そういえば、ヤンソンがよく描いているモチーフとして、「安らぎの空間」と「憎しみの空間」がある、と東さんは書いている。

(ヤンソン作品では)たいていの人物がそれぞれに落ちつける安らぎの場所を持っている。例えば、「夕空を眺めると、いつもロマンチックな気持でいっぱいになる」ムーミンパパは、北側の屋根裏にある西向きの部屋を、「朝が好きな」ムーミンママは東向きの部屋を、それぞれ持っている。(『ムーミンパパの「手帖」』)

まるで、小さな動物が冬ごもりをする「巣穴」のように、あたたかくて快適で、外部から守られている「安らぎの空間」を、ムーミン親子はそれぞれに持っているのだという。

一方でヤンソンは、「憎しみの空間」も描いている。平和そのものに見えるムーミン谷にも、実は『落ちつけない、不安にさらされる空間』があった。さらには『他人に対して、ひそかに憎しみや怒りを抱くことの許される空間』さえあったというのだ。

この東さんの指摘を読んで、昔読んだことのあるムーミンの絵本を思い出した。ママのおつかいでミルクを買いに出かけたムーミンは、帰り道の森の中で迷ってしまう。あてもなく彷徨っているうちに、新鮮だったはずのミルクもとうとう腐ってしまい、暗がりの中でムーミンはひとり途方にくれる…危機的とも思えるそんな状況を、淡々としたタッチで描いたヤンソンのイラストは、強烈な印象となって心に残った。アニメの「ムーミン」には決して出てこなかったようなワンシーンだ。

ところが、そんな恐ろしい森の中が、ムーミン一家にとってかけがえのない場所となることもあったという。

「ミムラねえさん」と、ホムサははにかんだ声で言いました。「もし、君がさ、とても大きな動物でさ、腹を立てたら、どこへ行くと思う。」ミムラねえさんはとっさに答えました。「うちの裏ね。お勝手の裏の、気味の悪い森の中よ。腹が立つと、あそこへ行ってしまったものよ。」〔…〕「行ってしまったって、君が腹の立ったときのことなの?」「違うわ。ムーミンのうちの人のことよ。〔…〕あの人たちは、憂うつなとき、腹のたつとき、ひとりになってせいせいしたいときには、裏へ行ったわ。」ホムサは足を一歩うしろに引いて大声をあげました。「嘘っぱちだ、そんなこと。ムーミンたちは怒ったことなんてないんだ。」(『ムーミン谷の十一月』)

幼いホムサ=トフトには、大好きなムーミンや、憧れのムーミンママが腹を立てたり、悲しみに浸ったりすることがあるとは信じられない。けれども、ミムラねえさんからこの話を聞いた数日後、たまたま裏山の「怒りの森」に迷い込んだホムサは、『森のもつちからに触れるとともに、こうした森の必要性と、そうした空間を必要とする人間性とを理解するのである』。

〔ホムサが森の中にまっしぐらにかけこむと〕たちまちまわりがうす暗くなりました。ミムラねえさんがいつか話していた、あの、ひとの来るのをいやがる、気味の悪い裏山の中でした。この森の中は、年中、昼でも暗いのです。木々は枝の置き場もないほどこみあっていて、心配そうにくっつきあって立っていました。地面はつるつるした皮みたいに見えました。〔…〕これは新しい世界でした。ホムサには、ことばで説明することも絵に描くこともできませんでした。何ひとつ、絵やことばにしてやる必要もないのです。ここにはいままで道をつくろうとしたひともいないし、木かげで休もうとしたひともいないのです。ただみんななんとなく暗い思いを抱いて、この中を歩きまわるだけなのです。これは怒りの森でした。彼はすっかり気持が落ち着いて、とてもいきいきとしてきました。〔…〕ホムサ=トフトは、森の中を奥へ奥へと入っていきました。何も考えないで、枝の下をからだをこごめてくぐり抜けたり、這ったりしているうちに、頭の中が、あの水晶玉と同じように空っぽになりました。そうだ、ムーミンママは、くたびれたり、腹が立ったり、がっかりしたり、ひとりになりたいときには、あてもなく、果てしもなくうす暗いこの森の中を歩きまわって、しょんぼりした気持をかみしめていたんだ…。ホムサ=トフトには、まるっきりいままでとは違ったママが見えました。すると、それがいかにもママらしく、自然に思えました。ホムサはふと、ママはなぜ悲しくなったのだろう、慰めてあげるにはどうしたらいいのだろう、と思いました。(『ムーミン谷の十一月』)

『ヤンソン作品の素晴らしさは、読者対象が子供であっても、ものごとの両面、多面を隠さず描くところにある』、と東さんは書いている。

いつか読んだあの絵本の中で、道に迷い、ミルクを腐らせてしまったムーミンが、その後どうなったのかはよく覚えていない。けれどもきっと、そうした目に遭わなければ会うことのなかった誰かと出会い、気付くこともなかった何かを見つけて、無事にムーミン谷に帰りついたことだろうと思う。

★ちなみに…ムーミン公式サイトはこちら
Welcome to Moominvalley ムーミン谷へようこそ
村民登録やミニゲーム、壁紙のダウンロードもできるようです。
posted by ふらら at 10:35| Comment(4) | TrackBack(1) | 書評 子ども・絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月27日

「非まじめ」ロボット博士の発想

「非まじめ」のすすめ (〔正〕)「非まじめ」のすすめ (〔正〕)
森 政弘

講談社 1984-01
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あの「不気味の谷」の概念を考えたロボット博士、森政弘さんには、「非まじめ」シリーズという名著があるらしい。
人間「まじめ」もいいけれど、それだけでは固定観念にとらわれてしまう。もちろん、「不まじめ」ではいけないので、いっそ、そのどちらでもない「非まじめ」になってしまおう…というのが森さんの提案だ。

たとえば、ロボットの研究を始めたばかりの頃、森さんは「人の手」の研究をしていた。そんな誰でも知っているようなことより、もっと新しい研究するように、と諭されたけれども、『しかし手のようなものがまだ機械では作れないではないかと思って、手の研究を始めた』のだそうだ。

手の研究をはじめると、それは大学へ行かなくてもできる仕事であった。自分の体についているのだから、自分の手を見ていれば、朝から晩まで研究になる。とにかく手の機能というのはすごいものである。
手は物を持つものだとふつう思われるが、そうではない。手の原点に立ち返ると手は前足である。前足だから自分の体を支えたり、自分の体のバランスをとったりすることが第一の役目なのである。
お風呂がわいたかなといって手を湯船に突っ込むときは温度計になる。指を折って数えればコンピュータになるし、あっちですよ、こっちですよと指示すれば信号である。(一部中略)

手が実は前足だったなんて、思ってもみなかった。確かにおもしろい見方だけれど、一体それのどこがロボットに結びつくんだろう…と考えるのは「まじめ人間」の発想で、まずは思いつくままにアイデアを広げていった方が、むしろ結果が出やすいものだ、と森さんは言っている。

手の動きとなると、もっと巧妙である。シャープペンシルを二本の指で持つと、親指と人差指とが当然相対している。それを中指を使って三本の指で持って、指どうしの関係を見ると、人差指と中指のまん中に親指がきて、親指が半ピッチずれ落ちているが、これは無意識にやっていることである。
三本の指で持つから親指はまん中に持っていかないとまずいぞ、などと意識して持つ人は一人もいない。もし、そういう人がいたら研究の対象によいからぜひ紹介してほしいのだが、いない。
これをロボットにやらせてみる。二本で持たせて、三本というときに、あらかじめそれなりに組んでおかないと、ロボットは指をずらさないで持つ。これは二本で持つよりぐあいが悪い。こうして、ほう、おれたちは三本でもつとき無意識にこうやっているのかということが意識にのぼるわけだが、人間のやっていることは本当に一つひとつ、すごい。(一部中略)

N02-Book 018.jpg「非まじめ」の
すすめ
p.145より


こんな風に、無心でおおらかな研究を「非まじめ」に続けるうちに、手に腕がつき、胴体がつき、やがては脳がついて、だんだんロボットらしくなっていったのだそうだ。

どちらかといえば、「まじめ人間」の部類に入ってしまいそうな私だけに、森さんの「非まじめ」な発想は、どれを取ってもすごく新鮮だった。
中でも印象に残ったのは、まじめな人が陥りやすい「固定観念」の例ということで、森さんが紹介していたこんな詩。忙しすぎて、自分で工夫することを忘れてしまったようなときには、この子牛のことを思い出したい。

02-01130.jpg野原があった。そこへ一匹の子牛がやってきた。子牛は気まぐれに、くねくね曲がりながらその野原を通って行った。

その翌日、狩人に追われた鹿がやってきた。鹿は子牛の通った、草がねているあとを逃げて行った。――緊急の時は、創造しているひまはない。ひとの通ったあとを通るものだ。狩人もそこを通って行った。草はますますふみつけられ、はっきりと曲がった道ができた。
その次の日は羊が来た。羊は、その曲がりくねった小道を、曲がりくねっていると不満を言いながら通っていった。

しばらくたって、こんどは旅人が来た。旅人もその曲がった道を通っていった。
こうして、草はとれ、土面が顔を出し、曲がりくねった小道ができ上がった。こうなると、村人も、旅人も、馬車も、犬も、そこを通る。

月日は矢のように過ぎ、その曲がりくねった小道は大通りになった。村の家々は、その大通りに沿って曲がりくねって建てられていった。またたくうちに、そこは大都会の中心街になった。

鉄道が敷かれたが、その線路も道に沿って曲がっていった。

何十万人もの人々が、今もなお、
三百年前も昔に通った、あの子牛に導かれて、くねくね曲がりながら通っていく。

確固たる前例なるものは、
こんなにまでも尊ばれるのだ。

サム・ウォルター・フォス「子牛の通った小道」より
タグ:森 政弘
posted by ふらら at 13:41| Comment(6) | TrackBack(1) | 書評 セレンディピティ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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