2006年09月03日

『一頁の力』を持つ絵本〜五味太郎『絵本をよんでみる』(その2)

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『よあけ』の中のたき火のシーン
(『絵本を読んでみる』123頁より)

…そのきれいなたき火の印象が、この『よあけ』のたき火の画面を見るとよみがえるんだ。夜明け少し前の朝、たぶん朝霧がたっている。そこにたき火の煙が一筋のぼっていく。この煙のたち方はほぼ理想的なたき火なんだよね。このたき火をみるだけで、このおじいさんがいかに人生を深く歩んできたか、ということがわかる。ぼくのたき火体験からわかるこのたき火のすごさ。この煙はそうだれにでもたつもんじゃない。(一部中略)

五味さんは、このたき火のシーンがある一頁をながめたいがために、『よあけ』の絵本を開いてみることがあるという。絵本の中には、そうした『一頁の力』を持つものがあって、「ある一部分が見たいがために一冊の絵本が存在するということも十分あり得るんだ」と五味さんは語る。「ぼくにとっては、この『よあけ』がまさにそういう本だ。たき火の一頁が核になって、『よあけ』という絵本がぼくの中で重要な本になる」。

―もしかしたら、この絵は作者がそんなに力を入れたところじゃないかもしれないけどね。それこそラストの劇的な日の出のための、ほんの伏線にすぎないのかもしれない。でも、そんなこと知ったことか、というのがぼくの読み方でね。
それにこの『すこし ひをたく。』という文章。この「すこし」に多大な意味をこめて読むことが可能だよね。遠慮するという意味なのか。必要なだけ、というニュアンスなのか。すぐ出かけなくちゃならないという意味合いもあるかもしれない。深読みすれば、このおじいさんの「人生の火」がもう少ないのかもしれない。あるいはおじいさんと孫の二人旅そのものが、何かしらの意味においてひそやかと言えるのかもしれない。またあるいは、すでに火に対して神的なものを見とらえていて、それゆえに「すこし」なのかもしれない。(一部中略)

とりあえず、この間のキャンプでは、それほど深い考えもなしに、ただぼうっと炎をながめていただけなのだけれど、それは、静かな夜/夜明けにしか焚くことのできない「きれいなたき火」の味わいを、再発見することができた貴重なひと時だったのかもしれない。

よあけよあけ
ユリー・シュルヴィッツ 瀬田 貞二

福音館書店 1977-06
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2006年09月06日

雨のにおいは虹のにおい〜『世界気象博物誌』より(その1)

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お天気となかよくなれる本―世界気象博物誌
お天気となかよくなれる本―世界気象博物誌Gary Lockhart グループW


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ふと、台所の窓辺に置く観葉植物がほしくなったので、初心者向きのサンデリアーナを買ってきた。以前、知人からもらった野焼きの器があったのを思い出して、土を盛って植えてみると、これがぴったりのサイズで結構いい感じ。
そのまま、夕食の支度に取り掛かったところで、植えたての鉢植えの方から、何だか懐かしいにおいがするのに気が付いた。サンデリアーナの根元の土…というよりも、たっぷりと水分を吸い込んだ野焼きの器から漂ってくるのは、独特のほのかな湿ったにおい。

水が染みた土の器のにおい、と言ってしまえばそれまでだけど、わざわざ鉢植えに鼻を近づけなくても、あたりの空気中に充満するように、強く、濃く漂っているこんなにおいをどこかでかいだ覚えがある。

そうだ、これは雨が降る前の大気のにおい、あの「雨のにおい」に似ている。

               * * *

そういえば、『お天気となかよくなれる本』(原題:The Weather Companion)という本には、「雨のにおい」の正体について、こんな話が書いてあった。

水にはにおいがないから雨のにおいを感じるはずはないが、雨が降るときには独特のにおいがすることがある。それは虹のにおいだと考えられていた。アリストテレスとプリニウスによれば、虹にはにおいがあるという。

1960年代にオーストラリアの化学者たちは、相対湿度が80パーセントに達したときに、ある種の粘土が雨のにおいを発散することを発見した。そして、「石のエッセンス」というギリシャ語から、このにおいをペトリコールと名づけた。

オーストラリアの科学者によると、次のようなペトリコールの性質が明らかになった。雨が降らない間に、土壌に植物が発する化学物質、ある種の油が入り込む。土壌中の鉄分が触媒となって、植物の油が「雨のにおい」へと変換する。もし雨が降れば、油が洗い流されてしまうから「雨のにおい」はしない。雨が降る前、相対湿度が80パーセント以上のときに、その湿り気が土壌中の「雨のにおい」を放ち始めるのだ。
(その2につづく)

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chez sugi  『雨の匂い』
タグ:雨のにおい
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2006年09月09日

大地のにおいの醸成槽〜『世界気象博物誌』より(その2)

ということは、次の2つの条件がそろったときに、「雨のにおい」が生まれるということになる。

 土壌に入り込んだ、植物が発する化学物質
 80パーセント以上の相対湿度

それで思い出した。土とはあまり縁のない場所に暮らしているのに、「雨のにおい」を最近かいだ覚えがあったのは、しばらく前に屋久島を訪れたからだった。「ひと月に35日雨が降る」と言われるあの島で、濃い霧がかかったある万年杉を、根元から振り仰いだ時にかいだにおい。

もっと古い記憶もある。小学校の頃、教室で飼っていたカブトムシの幼虫の巣をのぞきこんだとき、あの「雨のにおい」をかいだような気がする。

最近、近所のペットショップで見かけた「カブトムシ飼育セット」のケースの中には、朽木から作られた湿った土がたっぷりとつめてあった。幼虫はその中にもぐり込んで、まわりの土を食べながら育つのだ。あの「飼育セット」は、ミニチュア版の「雨のにおい」を生み出す醸成槽のようなものなのかもしれない。
ペトリコールは、雨の少ない地域ではにおいのもとだが、雨の多いところでは化学的には違ったものが「雨のにおい」をつくっている。一世紀前のイギリスでは、気圧が下がったときに土の中のカビが「雨のにおい」を出しているという説があった。これは現在では抗生物質のストレプトマイシンを作るのに使われるのと同じ土壌中の細菌であることがわかっている。

この湿った大地のにおいは「大地のにおい」と言う意味の言葉から出た「ジオスミン」と呼ばれ、いろいろなものに含まれている。大雨で上水道に大量の水が流れ込んだときに水がくさったような味になるのはたいていジオスミンである。川魚のマスやコイ、ナマズの泥のような味の原因となっている。料理したばかりのビートの土のようなにおいもジオスミンによるものだ。

「雨のにおい」の源にも、土地柄によっていろいろあるようだ。きっと人によっても、あの「雨のにおい」から連想するものは千差万別なんだろうと思う。アリストテレスだって、古代ギリシャのどこかで、あの湿った大地のにおいを「虹のにおい」だと考えていたのだから。
タグ:雨のにおい
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2006年09月12日

想像力を駆り立てるための炎〜『火を喰う者たち』(その1)

火を喰う者たち火を喰う者たち
デイヴィッド・アーモンド 金原 瑞人

河出書房新社 2005-01-14
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火喰い男(fire-eater)というのは、サーカスなどで、炎を飲み込むパフォーマンスをする奇術師のこと。転じて、すぐかっとなる喧嘩っぱやい人のことを言ったりもするらしい。
もちろん、この本の表紙に描かれている「火を噴く男」は、主人公のボビーが出会った不思議な曲芸師、マクナルティに違いない。けれど、なぜか物語のタイトルは『火を喰う者たち』と複数形だ。作者のデイヴィッド・アーモンドが The fire-eaters と呼んでいるのは、いったい誰のことだったんだろう。

THE FIRE-EATERS は、キューバ危機が起こった当時の物語だ。ボビーが中学校に通い始めて間もなく、核ミサイルの行方を伝えるテレビのニュースが、彼の住むイギリスの小さな海辺の村にも流れ始める。核戦争の噂はもちろん、教師トッドがふるう鞭の痛みや、最近体調を崩した父親の苦しそうな咳にも不安の火種はひそんでいて、ボビーの安らかな眠りをうばうのだった。
そんな時ボビーにできるのは、ただ「祈る」ことだった。幼なじみのアリサによると、死んだはずの幼い小鹿が、一晩中お祈りをすることで生き返ったという。もしも人間にも、アリサの言う「祈りの力」が通用するとしたら…
「父さんがよくなるなら、ぼくはいい人間になります。どんなときも悪と戦います」
夜の寝室で、流れ星に向かって祈ったことを、ボビーは自分にできる形で、とにかく実行しようと誓うのだった。

やがて、生徒に鞭を振り上げた瞬間のトッドの姿を捉えた写真が、「邪悪」「罪」という走り書きと一緒に、学校中にひそかに張り出される…

***

私個人は宗教を持っていないから、ボビーやアリサがどんな思いで「祈り」をささげていたのかを、本当の意味ではたぶん理解することができない。その上戦争も、キューバ危機すら実際には経験していないから、THE FIRE-EATERS のような作品を読むときは、どうしても感覚的に大きなギャップを感じてしまう。
作者のデイヴィッド・アーモンドは、処女作の SKELLIG (『肩甲骨は翼のなごり』)から大好きな作家で、ずっと読み続けてきた。それが、この THE FIRE-EATERS には冒頭から何となく読みづらさを感じて、長らく積読状態になっていたのは、たぶんそのせいだったのだと思う。

戦争を知らない世代にとって、戦争についての作品を読むには想像力が必要だ。THE FIRE-EATERS で、ボビーが直面する不安や恐怖、暴力のことが、ああもリアルに描かれているのは、そのことを作者アーモンドが配慮した結果だったのかもしれない。
たぶん、作品の中に周到に用意された、ちょっと荒っぽい想像力の「媒介物」のようなものなのだ。マクナルティが、観客の前で飲み込んでみせる炎も、自分のほおにゆっくりと突き刺していく銀色の串さえも、何もかもが。私みたいな引け腰の読者でも、第二次大戦後間もないあの時代へと、無理なくジャンプできるように。(その2につづく)

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プリオシン海岸―佐吉の読書夜話―
『ヘヴンアイズ / デイヴィッド・アーモンド』
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2006年09月15日

少年が世界のために祈ること〜『火を喰う者たち』(その2)

あまり本筋には関係がないけれど、とても心に残るシーンがあった。ボビーたちに生物を教えているビュート先生が、授業でカエルの解剖をするという場面だ。
先生はカエルの腹部にメスを入れて、小さな肺と心臓を取り出してみせる。「まるで違った生き物なのに、私たちとそっくりでしょう」と先生は言う。「このカエルが失くしたものは何だと思う?」
「命です」
「じゃあ、もしこのカエルが、また命を取り戻したらどうなる?」
「痛さを感じます」
「机から飛んで逃げます」
「心臓がまた動きます」
生徒の一人がそう答えると、先生は細い針金を取り出して、カエルの心臓に押し当てた。そのうち、心臓がぴくっと動く。
「ほら、生き返ったかな、このカエル?」
生徒はみんな首を横にふる。
「そう、これはただのトリックね。じゃあ、このカエルに足りないものは何かしら? いったい何を失くしたの?」
「命です」
「じゃあ、命っていったい何だろう?」
誰も答えられない。
「謎よね。カエルの体を切り開いても、この謎は深まるばかりなの」
最後に、ビュート先生はこう言った。
「宿題はなし。ただ、今見たことを忘れないで」

***

私が中学生だった頃、すでに「カエルの解剖」は生物の授業のカリキュラムからなくなっていた(それは、単に「残酷だから」という理由からではなかったはずだけど)。そのせいか、このシーンを読んだとき、ボビーたちと一緒に、ビュート先生から何か大切なことを教わったような気がした。

眼をつむって、知らないふりをしてやり過ごそうとしても、そうはいかないものもある。死もそうだし、たぶん痛いという感覚もそうだ。
また少年がナイフで誰かを襲った、とニュースが流れるたびに、ある友人は、
「ナイフを普段使ってない子は、自分で怪我したことないから痛みが分かってない。もっと鉛筆削りでもリンゴむきでもさせて、ナイフの怖さを教えた方がいい」
というけれど、ストレートに言えばそういうことかもしれない。
痛みがどんな感覚かを知っておくことはとても大切だ。死とは何なのかを想像することも。そうした直感にうながされて、戦争の話を私たちに語ってくれる人がいる。The Fire-Eaters のような物語を書いてくれる人がいる。アーモンドが、体罰が横行する中学校の中で、ひそかに生徒を思いやる教師としてビュート先生を描いていることにも、何か意味があったのかもしれない。

物語のラスト近く、世界中が核ミサイルへの恐怖に飲み込まれようとしていた夜に、ボビーは最後の「祈り」をノートに書き付ける。それは、自分にとって身近な人の名前、動物や昆虫や植物の名前を、思いつく限りすべて書き並べていくというものだった。
「全部の名前は書ききれないけれど、このすべてをお救いください。どうしてもだれかを召さなくてはならないのなら、このぼくを召してください」

ボビーのこの祈りについて、共感しようとするのはとても難しい。冗談でもこんな祈りをささげる気にはなれない現代の日本で、私は安穏とこの本を読み終えてしまった。
けれど、少なくとも作者は、あの夜のボビーの真摯な思いについて、そのバックグラウンドを交えて想像してみるチャンスを与えてくれている。たとえばボビーは、最後の「祈り」の中のラインナップに、自分たちに鞭をふるったトッド先生の名前も加えていた。猛り立っていた感情の炎も何もかも、すっかり飲み干すようにして。

The Fire-EatersThe Fire-Eaters
David Almond Daniel Gerroll

Listening Library 2004-05
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2006年09月18日

長新太『海のビー玉』より〜生み出す人、排泄する人

あるとき立ち寄った古本屋で、こんな本を見つけた。

海のビー玉海のビー玉
長 新太

理論社 1985-07
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懐かしい長新太さんの名前にひかれ、手にとってぱらぱらとページをめくったとき、「作品は排泄物だ」という衝撃的な名フレーズを見つけて、思わず購入してしまった。
帰宅後、さっそくこのフレーズの詳細を確認してみたところ、心理学者の河合隼雄さんと対談をしていた長新太さんが、突如、「これは僕の持論なんですけれどね…」と前置きして語り出したセリフだったと分かった。

長「僕は自分で描いたものは排泄物であると思っているんです、だから、忘れてて全然覚えていないっていう(笑)そういうところがあるんですよ」
河合「そうですか」
長「打ち上げ花火のようにパッとついてパッと消える、そういういさぎよさが作品には必要だなんて言った人がいるけれど、僕はそんな粋じゃなくて、水洗というか、そういうのに流してしまうというか」
河合「その気持ちはよく分かるんですけれども、自分の排泄物のために金を払う人がおるということをどう思われますか(笑)ここんとこがひじょうに大事なんですが」
長「わたしの、一種の黄金というか(笑)」
河合「なるほど。それは事実ですね。これは昔話でも得意中の得意なんですが、つまり最低のものは最高のものに変化する」
(一部中略)

この後も、話はどんどん発展していって、「排泄」という行為の中には、そもそも「子どもを産む」=「生み出す」というイメージが入っているから、子どもなんかはうんちとかがものすごく好きなんだ、と河合先生が語ったりする。

河合「…おかあさんは子どもを産んだかしらんけど、自分は頑張ってうんちを生めるわけだから。一般の人は、そういうふうなイメージが全然分からないんですね。だから排泄物っていったら変な顔するけど、生み出したものっていったら俄然感激するんです。似たようなものなんですけどね」
長「そういえばそうですね」

結構そのままな長新太さんの受け答えを、前向きな解釈でどんどん膨らませていくやり手の河合隼雄センセイ、という構図も見えなくはないけれど、「排泄」の一言でオチることなく、ますます濃いやり取りへと煮詰まらせていくこの二人はやっぱり只者ではない。(ひょっとして河合さん、長さんのファンだったんだろうか?)

そのうち、「怪人タマネギ男」「ジャガイモ男」などの作品を切り口に、長さんの「地下茎族(リゾ−ム)」としての本質に迫る…という、何だか奥深い展開になっていく。排泄物→潜在意識→地下→土中(土宙)→地底大探検→怪人登場→異常と正常の境界…と、イメージ遊びのように広がっていく「絵本作家」分析がたいへん興味深い。

(この記事は、別ブログ『掘れたて本』の記事を転載したものです)
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2006年09月21日

人間図鑑の魅力〜『や・ちまた 王たちの回廊』より(その1)

や・ちまた―王たちの回廊や・ちまた―王たちの回廊
鬼海 弘雄

みすず書房 1996-01
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『や・ちまた』は、東京の浅草寺境内で、通りがかりの人の写真を撮り続けて30年以上になるという鬼海弘雄さんの写真集。帯にあった「人間図鑑!!」という文句に興味を引かれて、軽い気持ちで手に取ったのだけれど、初めて目にする鬼海さんの作品にはかなりのショックを受けた。
1ページごとに大写しになったモノクロの人物写真には、それぞれ簡単なタイトルが添えてある。「扇子を持った人」「鳩に餌を与えに来た人」「レース帽の人」「熊の毛皮を着た大工」…。どれも、ごく普通の人たちの、何気ない表情を撮った写真ばかり。なのに、この圧倒的な存在感は何だろう。

そのうち、写真集のあちこちに、解説文らしい文章が挿入されているのを見つけた。梁石日、林望、山尾三省、中野梓といった豪華なメンバーが、鬼海さんとその作品世界に各々のオマージュをつづっているのだ。
中でも印象に残ったのは、荒川洋治さんの文章。「止まって、明らかになる」という不思議なタイトルのついたその文で、荒川さんはこう書いている。

 としをとると、顔にあらわれるが、服装にも出る。特に何を着ているかは、興味をそそる。
 一見ではいわゆる、おじさん、おばさんという名前で、ひとくくりにされそうだが、実はそれぞれに複雑な味わいとでもいうべきものがある。にじみでている。
 家の中にいるときの普段着そのままで道を歩く。ネクタイのしめ方も、背びろのほうもルールにかなっていない。寝間着のままという人もいる。
 としをとったからそうなる人ばかりではない。はじめから、服装というものを、どうでもいいと思っている人もいる。どんな服でも着る。選んだりしない。生活にゆとりがないためもあるが、そんなことは全然、気にせず、どーんと、いつもの服を着る。(一部中略)

荒川さんの表現の的確さに、私はまたびっくりする。それはまさに、『や・ちまた』のポートレートの魅力そのものを伝えている文章だったから。

 うわべはどうでもいいのかもしれない。うわべのしっかりした人が、とても悪いことをする場合もあるから、簡単に人を服装で決めることはできない。服装を見ずに、服装が見えてもそれを見ずに、いちもくさんに、この人はどういう人かを、わかることができればそれでいいのだが、そういう見方のできる人は少なくなった。何かをたよりにしてしか人間を見ることができないのだ。だから人間は、いまとてもつらいところにいる。(一部中略)
(その2につづく)
タグ:鬼海 弘雄
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2006年09月24日

日々の装いが物語るもの〜『や・ちまた 王たちの回廊』より(その2)

自然服ということばがある。合成繊維や、人工染料を使わずに作った服のことだと思っていたけれど、「それだけじゃない」という人がいた。ある和風雑貨店のご主人だ。
「肌触りっていうか、その素材の感触っていうか…着ていて、気持いいって思える服が、その人にとっての自然服やね」
確かに、その店に並んでいるしぼりや藍染の服は、どれを取っても触り心地がよかった。触って、なでて、風合いを楽しみながら選んだ服は、なぜか力を抜いて楽に着こなすことができるような気がする。肌触りで服を選ぶのは、自分の着心地のため、色柄で選ぶのは、誰かに見てもらうため…とは言い切れないだろうけど。服というのは、元々人に見られるためのものだと思うから。

新しい服を着るのは楽しい。誰かにそれを見てもらう時のことを考えているからだ。そんなふうに、人からの視線に支えられるようにして、私は毎日服を着ている。当たり前のことだけど、一日の始まりには、まず「何を着ようか」と考える。無理のない範囲で装いに気を配ることは、大切な日常の快楽だと思う。

なのに時々、鬼海さんの写真集が見たくなるのはどうしてだろう。

そこに登場する、他人の視線なんて何とも思っていなさそうな、「どーんと普段着そのまま」の人たちに、ふと会いたくなる。意表をつくような個性的な装いと、その向こうに見え隠れするその人の人生そのものが、万華鏡みたいに目の前に現れては消えていく。『や・ちまた』のページをめくっているときの、あのショッキングな驚きと、独特の解放感を味わいたくなる。

人はいろんな服装をするものだが、一人一人にあたってみると、服装や、姿勢の中に、とても多くの情報量が含まれているものだ。それをよみとることはどんな書物にもまさる勉強になるだろう。

服装は どこかで
止まって
いるものである

 なんとか仕事にありつき、ようやく家族を養えるようになった、という人もいる。そのときの安堵感で、人生がすべてからになり、自分のではなく、家族のための人生しかない、というところで、服を着ている人もいる。
 結婚した。やっと相手がいた。そこで止まった服装。子供が生まれて、自分が母親だけになって、止まった人。夫に従うだけになって止まった人。会社のために生きている。あるいは上司のために。しかも胸をはって。でも、そこで人生を埋めてしまった人の服装。 いろんな人が、止まった人生を明らかにしている。それは「人生」というものが、ぼくらをいかに犠牲にしているかの証明でもある。それはまた、自分をなくした記録でもある。自分をなくしたところに、それぞれの生き方がぼんやりと、あたたかいお化けのように立つ。
 人生は止めるためにあるものなのかもしれない。

(荒川洋治さんの文章より)

ふと、私はもう「止まって」いるのかなあ、と考える。そう思うと、なんだかどきりとして、普段の生活のことを改めて考えてしまう。
まだ、どこにも止まりたくない。自分をなくそうとは思えない、と本心がのぞく。一方では、それって人生まだまだってことか、と先を遠望するような気持ちにもなるけれど。
いっそのこと、浅草寺まで出かけて、何かの占いみたいに鬼海さんに写真を撮ってもらいたくなる。自分でも気付いていなかったような心の隅々も、何もかも、ぜんぶを捉えて凝縮したようなもう一枚のモノクロ写真が、『や・ちまた』のページに加わったところを見てみたいと思う。

ぺるそなぺるそな
鬼海 弘雄

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タグ:鬼海 弘雄
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2006年09月27日

『ちいさな「くに」の雄大な想像力』〜リービ英雄「英語でよむ万葉集」(その1)

英語でよむ万葉集英語でよむ万葉集
リービ 英雄

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万葉集の英訳で1982年に全米図書賞を受賞したリービ英雄さんが、主な約50首の対訳に、訳者ならではのエッセイを加えた一冊。

『英語でよむ万葉集』の「よむ」は「読む」でもあり、「詠む」でもある。「天の原」「不尽の高嶺」など、日本人なら常套句として読み流してしまいそうなことばに、リービさんは改めて疑問を抱く。時には、歌が作られたとされる当の場所に立ち、古の歌人になりかわって、大和ことばを英語で「詠もう」と試みている。

正直言って私には、万葉集の歌をそのまま味わうだけの読解力がない。この本で引用されているのはどれも名立たる歌だというのに、細部までよく意味を理解していた歌は少なかった。和歌の世界の広がりを、本書を通して垣間見ようというとき、リービさんの的確でプレーンな英訳や、歌との出会いがつづられたエッセイは大きなヒントになった。

たとえば、『ちいさな「くに」の雄大な想像力』という章では、天の香具山から国見をしたという舒明天皇の歌を「よむ」ために、飛鳥村を訪れたリービさんの体験が語られている。

 十九歳の秋にぼくはリュックに万葉集の古い文庫本を入れて大和に出かけた。もうすでにそんな旅をする人はほとんどいない時代だったのに、京都から奈良まで歩いた。十一世紀から八世紀へ、そしてやがては七世紀へと時間を「南下」する感覚で、古へ、さらに古へと動いた。
 いま振り返ると、あの頃は恥ずかしいくらい「外人」だった。自分がいつか日本語で創作するようになるとは夢にも思わず、とにかくはじめての大和の風景を、日本語がはじめて書かれた時代の、よく分からない膨大なテキストを手に、何とか「読もう」としていた。
 最後の日の午後、秋のやわらかな日が傾きはじめた時刻に、飛鳥村にたどりついた。

その飛鳥村で、リービさんは「天の香具山」を目指した。京都や奈良とは違って、壮大な建造物はないけれど、名歌によって知られた風景がそこかしこに散在する飛鳥の地。
『大和には「群山」があり、その一つひとつが表現の歴史の「主人公」なのだ。そのたくさんの山の中で、天皇が他ならぬ香具山に登って、その頂上から国見をする…』

…天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ…

眼下に広がる大和の国と、かなたに波打つ海原…そんなスケールの大きい光景を思い描きながら、リービさんは香具山のふもとにたどり着く。

実際の香具山は小さかった。mountain(山)よりもhill(丘)を少し大きくしたくらいのものだった。風景も雄大とは言えない。そしてどこにも「海原」はなく、「かまめ」が飛び立つはずもない。その日、ぼくはある種の失望を感じた。
(その2につづく)

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Hiroetteのブログ
『「ニッポンを解剖する」の感想&メモ書き ―リービ英雄 前編―』
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2006年09月30日

『「天」の性質をもった美しい丘』〜リービ英雄「英語でよむ万葉集」(その2)

それでも、古の歌に詠まれた雄大な「国見」のイメージは、リービさんの胸中から消えなかった。やがて、幻の「天の香具山」への思いは、当の歌の英訳となって結実していく。

  国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ

  On the plain of land,
  smoke from the hearths rises, rises.
  On the plain of waters,
  gulls rise one after another.

日本語を読み返し、英語にそれを置きかえる。その作業をしているうちに、小さな風景とはうらはらに、雄大で厳かな対句が頭に響き、そこには陸と海をかかえた大きく構造的な想像力がはたらいているのが分かった。

実際の自然をこえて自然を歌う、というのはとても逆説的な行為かもしれない。けれど、何の変哲もない風景から、「ことばそのもののスケール」を生み出した歌人の表現力に、リービさんは圧倒されるものを感じたという。そんな思いの表れか、リービさんは、「天の香具山」を heavenly Kagu Hill と表現している。どんな山よりも高い、「天の性質をもった美しい丘」と。

英訳を通じて、飛鳥時代の日本語の豊かなニュアンスを、リービさんは現代によみがえらせてくれている。古典に疎い私は、国原に立っていたという「煙」が、smoke from the hearths(炉辺から立つ煙)だったことに、リービさんの訳を読んで初めて気が付いたくらいだけれど。時には、何気ない日常語の中にも、思ってもみない解釈が眠っている可能性を教えられ、新鮮な驚きを感じた。

たとえば、春を迎えたばかりの山の眺めを詠んだ額田王の歌に、リービさんは「抑制されたエネルギーの解放」を読み取ろうとしている。

 冬ごもり 春去り来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど…

この「花が咲く」という一節に、リービさんはこだわった。

  …and flowers that lay unopening
   split into blossoms

とくに花が「咲く」ということは、「裂く」というエネルギーの活動をはらんでいるので、単なる bloom よりも split into blossoms、「花へとさく」、という表現になってしまう。

リービさんの言う通り、確かに「花がさく」という言葉には、内に潜んでいたものを一挙に解放する、「裂く」、という意味合いが込められているような気がする。

古今和歌集とは違って、凝った技巧のない素朴さが特徴、とどこかで教わった覚えがある万葉集。その中から、時に大掛かりで、時に繊細な想像力を解放してみせてくれるリービさんの訳は、的確でありながら、自由奔放な意外性にあふれているようだった。

Man’yo Luster―万葉集Man’yo Luster―万葉集
リービ 英雄

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