2006年07月13日

胎児のひみつ

人という動物と分かりあう人という動物と分かりあう
畑 正憲

ソフトバンククリエイティブ 2006-03-16
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以前、電車の中でかわいいベビーを見かけたことがある。隣に乗り合わせたおばさんがよろこんで、しきりに「いないいないばあ」で遊んでやったりしていた。
けれど、本人はずっとむっつりした表情のままで、あんまり反応がよろしくなかった。
「ベビーの中にも、あんなダウナー系がいるんだな」と、ちょっと意外に思ったのを覚えている。
ところが、この畑正憲さんの本を読んで、あのときの真相が分かったのだ。

あるとき、オーストラリアを旅行していた畑さんは、死んだワラビーの母親を発見した。お腹の袋には生まれたての子供がいたので、さっそく母親代わりになって育ててやったそうだ。ところが、そのワラビーベビーは、育ての親にまったく懐かなくて、温かい布の袋に潜り込みたがってばかりいた。

そうか。秘密は脳の中にある!
私は、そう考えた。
有袋類の袋は、子宮にあたるのではないだろうか。その中にいる間は、母親など認識しないでいいのである。
つまり、ワラビーやカンガルーの袋の中にいる赤ちゃんは、人間で言えばまだ「胎児」の状態で、外界に対する関心が芽生える前の段階なんだそうだ。なるほどなあ。

もちろん、人間の赤ちゃんも動物と同じで、発達にははっきりした段階があるらしい。だから、一頃はやった「胎教」なんて全く無意味だ、胎児はバッハやモーツァルトなんて必要としていない、というのが畑さんの考えだ。

きっと、あのとき電車で見かけたベビーも、別に人嫌いな性格だったわけじゃないんだろう。まだ「いないいないばあ」のおもしろさが分かる前の段階だったんだろうな。

こんなふうに、動物を通して考える「人間論」の本。なかなか楽しめる。


★今回の関連ページです。

「ムツゴロウさんこと畑正憲さんを東京ムツゴロウ動物王国に訪ねて」〜千葉のFMラジオ番組「ザ・フリントストーン」ゲストトークのページより
タグ:畑 正憲
posted by ふらら at 09:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 書評 いきもの・植物・空 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月18日

夢と現実の二重目標〜「ドラゴン桜」

ドラゴン桜 (13)ドラゴン桜 (13)
三田 紀房

講談社 2006-05-23
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いかにも「受験企画もの」という感じで、勧められてもちょっと敬遠していたけれど、いったん読み始めてみるともう止まらなくなった。ああ、こんな先生が自分の受験のときにもいたらなあ…そんなため息が数ページに一度は出てしまう。
「人に動かされて自分があるんじゃねえ、自分で自分を動かしてるんだ」
「東大の問題は無機質ではない。問題作成者の血の通った生きた問題だ」
「正しく読む、とは筆者との心のキャッチボールなのです」
「数学は芸術だ」
印象的な名フレーズのオンパレードで、生徒たちの心をどんどん引き付けていく。決して奇をてらった内容ではなくて、むしろ「王道を行く」ど正統派の授業の話だったりするのに、なんでこんなにおもしろいの? 勉強や受験についての暗いイメージが、小気味いいほどこっぱみじんに打ち砕かれて、どんなダメ生徒もみるみるやる気になっていく。

各教科の先生のキャラが、見事に立っているのもおもしろい。
たとえば、英語の川口先生はNY帰りで、年中タンクトップ姿のマッチョなおじさんだ。「楽しく楽して英語を学ぼう」が口癖で、ビートルズの歌やエアロビで授業を盛り上げてくれるし、さりげなく腕の筋肉をぴくぴくさせて生徒を笑わせてくれたりもする。
理科の阿院先生は、アインシュタインのそっくりさんという分かりやすい設定だ。偏差値30台の子供たちを東大へ入れる必勝テクニックを披露する一方で、「でも、受験一辺倒じゃあ…」と疑問を抱く先生に、こんな説明をしたりする。

3年生の二人はかわいそうでヒ…理科の面白さを知ってほしかったけど、二人には時間がありません。残念でヒ。そのぶん1・2年生にはいろんな体験をさせてあげたい。それが受験につながって合格を後押しできるようにね。
いわば、これは教師における二重目標という考え方でヒ。目標を立てるときは二重に準備するといいいのでヒ。
普通は誰もが「○○を○○だけやるぞ」と目標を立てます。「物理の問題を毎日15問解くぞ」というようにね。でも大抵は三日坊主で終わる。なぜなら目標がただの願望になっていて、昨日できなかったから今日は倍やるぞ、などと無理を重ねてしまうから。
そしてひとつ失敗すると、すべてがダメだと思って諦めて投げ出してしまう。これを防ぐために目標を二つにするのでヒ。最低限なしとげたい目標と、もしできたら理想的な目標の二つを用意するのでヒ。
私の場合は生徒を受験で合格させる、これは最低でもなしとげたい…。そして理想は生徒のみんなが科学について興味を持ち、将来自分も科学に携わって社会の役に立ちたいと思う人間を育てることでヒ。
心の底から深く感銘を受けてしまった。独特の「でヒ…」の語尾も、もうちっとも気にならない。阿院先生、感動をどうもありがとう。
なんだか仕事のやる気もわいてきたりするので、作業の合間にときどき『ドラゴン桜』を手にするのが癖になってきている今日この頃だった(あ、言い訳?)
タグ:三田 紀房
posted by ふらら at 10:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月21日

クローンたちの切ないノスタルジー〜「わたしを離さないで」

わたしを離さないでわたしを離さないで
カズオ イシグロ

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Never Let Me GoNever Let Me Go
Kazuo Ishiguro

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(*注* ネタばれあり)

尊其話題になった映画の「アイランド」もそうだけど、クローンをテーマにしたSFには、・筋の寒くなるような話が多い。でも、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」は、単なるクローンものと存うにはあまりに精緻で、切なくて、ほろ苦いような甘さのラブストーリーだ。

親を持たずに・まれたクローンたちは、隔離された施設の中で育てられ、やがて大人になると、自分の健康な臓器を他人のために提供しなければならない。そんなクローンの一人として育ったキャシーが、やがて「ドナー」となっていく仲卒の介護をしながら、・らと一緒に過ごした頃の思い出をふり返る、というお話。

こう書くと、やっぱりホラーじみた設定みたいだけれど、話を読んでみるとそんな印象はまったく受けない。「特別な存尊」のはずのクローンたちが、・段はびっくりするほど「・通」のティーンエイジャーそのものだからかもしれない。
ドナーとなって、多臓や肺を切除されてしまう日はそのうち必ず・る。でも、誰もがそれを「当たり前のこと」と思っていて、特にそれに逆らったり、悲観したりはしない。むしろ、「大切な義務」だと卒じている子も多くて、「その日が・たら、きっと・派にやりとげてみせる」なんて、けなげな揃意を口にしたりする。ち造うど、長い・争をしている孫に・まれた子供みたいに。

一・で、卒宿舎でのキャシーたちの・活造りは、ごく・通の女の子と変わらなかったりもする。ドナーになる「賊い将・」のことよりも、友達とのけんかとか、小さなジェラシーとか、すれ違い、思いやり、仲・りなんかのことで・をいっぱいにしている。ごく・通の中孫・たちと変わらない、リアルな学校・活を送っているのだ。

成人したら、まもなく死卒を迎える・女たちだけど、もちろん恋もする。キャシーと親友のルツ、幼なじみのトミーとの卒にはほのかな損角関係があったりして、どこかの少女漫画ばりに微妙な多理描写に泣かされてしまう(注:作村のカズオ・イシグロはイギリス孫籍の・性です)。
そんなとき、もしも・当に愛し合っていると認められたら、臓器提供の卒限をのばしてもらい、数年だけ二人きりの・活をすることができる、という不思議な噂が広まった。その内容を知らされたとたん、友達だったはずのキャシーとのトミーとの卒に、それまでとは違った微妙な其気が・まれるのだった。

どこの誰に、何と存って卒い出ればそんな猶予がもらえるのか、噂は何も伝えてくれない。ドナーになるのをただ先送りしたいだけではなくて、二人が「・当に愛し合っている」ということをどうすれば証明できるのかも、誰も教えてくれない。不属に襲われるキャシーを、トミーはこんなふうに励ましたりする。「まあ、まだ時卒はあるって。だれも別に、そんなに急いでなんかないだろ (Well, I suppose we've got time. None of us are in any particular hurry.)」
周囲では、すでにひっそりと姿を消していく仲卒たちが・え損めているというのに。

・らにとっては、大人になるまでの成長卒だけが人・のすべてだ。だからこそ、クローンたちのティーンエイジャーの日々は濃密で、無限で、こんなにも切ないのかもしれない。
posted by ふらら at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 ファンタジー・SF | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月22日

『さようなら』(谷川俊太郎詩選集より)

谷川俊太郎詩選集 (2)谷川俊太郎詩選集 (2)
谷川 俊太郎

集英社 2005-07-20
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谷川俊太郎の詩のことを知ったのは、たぶん学生の頃だったと思う。
初めて読んだのは、「ぼくもういかなきゃなんない…」のフレーズで始まる『さようなら』という詩だった。その語り口調から思い浮かぶのは、せいぜい小学生くらいの幼い少年だ。そのくせ、「すぐいかなきゃなんない」、「ひとりでいかなきゃなんない」、「どこへいくのかわからないけど」、「どうしてなのかしらないけど」と、不思議に真摯な訴えをしているのが印象的だった。
この詩を教えてくれた人は大学の先輩だった。「どうしてこの詩が好きなんですか」と尋ねても、うまくはぐらかすばかりで答えてくれない。やっと聞き出せたのは、「ラストの数行がいい」という一言。なんだか童謡のフレーズのような詩を読んでいる先輩の心境は、結局「謎」のままだった。

けれど、改めてこの詩を読み返してみると、「読めば分かるだろ」と言わんばかりだったあのときの先輩の思いが、手に取るように分かるような気になってくる。中でも、ラスト近くの数行を読むと、「ぼく」が「まだ幼い少年」だという当初の印象がすっと薄らいで、これから先の生き方のことを、ふと思い描いてみている誰かの横顔が、谷川さんのポートレートと重なるように浮かんでくるような気さえする。

よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない
当時のわたしは、初めて実家を離れて、大学近くのマンションに住み始めたばかりだった。何かにつけて随分と背伸びをしていて、それだけ心の中は老け込んでしまっていたのかもしれない。もちろん「ぼく」の心境を、「自分のこと」として素直に受け止めることなんてできなかった。

(この記事は、別ブログ「掘れたて本」から転載したものです)
posted by ふらら at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 ことば・詩・物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月24日

『黄金の魚』(谷川俊太郎「クレーの絵本」より)

クレーの絵本クレーの絵本
パウル・クレー 谷川 俊太郎

講談社 1995-10
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同じ頃、そうとは知らないうちに、谷川俊太郎を「歌っていた」こともあった。
入ったばかりの大学の合唱団で、わたしはアルトを歌っていた。入団後の数ヶ月は基礎トレばかりが続いたから、年末のコンサートで歌う組曲の楽譜をもらったときは、ようやく本格的な練習が始まったようでうれしかった。
組曲のタイトルは「クレーの絵本第2集」とあった。クレーといえば、独特のタッチの抽象画で知られるスイスの画家だ。きっと、彼の絵からイメージして作られた曲なんだろう、とは想像がついたけれど、一風変わっていたのがその歌詞だった。

おおきなさかなはおおきなくちで
ちゅうくらいのさかなをたべ
ちゅうくらいのさかなは
ちいさなさかなをたべ
ちいさなさかなは
もっとちいさな
さかなをたべ
食物連鎖?
いったいどんな絵から生まれた歌詞なんだろう。不思議に思って楽譜を見ると、曲のタイトルは『黄金の魚』とあった。ただ、題材となったクレーの絵についての説明は、どこにも見当たらなかった。
それから、毎日のように歌の練習を続けながら、団員のみんなが、『黄金の魚』の絵のことをあれこれとイメージしていたに違いない。ある日、アルトのパートリーダーが、当のクレーの絵が載っているという絵本を見つけてきてくれた。
「でも、この絵を見たときは、ちょっと複雑な気持ちだった」とパートリーダーは言った。「谷川さんの詞を歌いながら、自分なりに想像していたものとは違っていたし、でも、何だか懐かしいものを見たような気もするし」
谷川さん? 
あわてて組曲の楽譜を見直してみると、作詞者の名前は「谷川俊太郎」とあった。ああ、あの『さようなら』の詩の人だったんだ。そう気が付いてから曲を歌ってみると、いかにもそれはあの人が書きそうな詞のように思えた。

いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない
クレーの『黄金の魚』を見た谷川さんは、いったいどうしてこんな詩を思い浮かべたんだろう。正直言ってよく分からない。絵の中央に描かれた黄金の魚が、谷川さんの言う「おおきなさかな」だったんだろうか。それとも、「もっとちいさなさかな」の方だったかもしれない。ひょっとしたら、谷川さんにとってはそのどちらでもなくて、ただ「ふかいうみ」にとけた「ひとつぶのなみだ」のように見えていたのかもしれない。

谷川さんの不思議な詩を「歌いこなす」のは、初心者にはかなりハードルの高い挑戦だった。でも、パートリーダーに絵を見せてもらったあの日以来、苦戦していたアルトの旋律が、ほんの少しだけ歌いやすくなったのは覚えている。

(この記事は、別ブログ「掘れたて本」から転載したものです)


★今回、トラックバックをさせていただいたブログのページです。

文芸・時評・芸能・旅行・精神etc 25時間目
『私の好きな詩』
posted by ふらら at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 ことば・詩・物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月27日

珠玉の「こども"異次元"体験」〜『ああ息子』

ああ息子ああ息子
西原 理恵子 母さんズ

毎日新聞社 2005-12-22
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あの『毎日かあさん』の西原理恵子と「母さんズ」が、わが子への思いのたけを、「息子"異次元"体験」エピソードに託して語った必笑の一冊。

「ある日、仕事から帰ると、新築の真っ白な居間の壁一面に印鑑が押してあった」
「おやつのバナナ、鼻に3日間も詰めっぱなしはやめれ。っつーか気づけよ、ワタシも」
「私が朝顔の花を押し花にしていたら、彼は押しカエルをつくろうとした」

まだ息子を持っているわけでも、かつて息子だったわけでもない私ですが、これは笑えます。まさに珠玉のネタのオンパレード。
それにしても、確かにどこかで聞いたような、懐かしい話がときどき紛れ込んでいるのはどうしてだろう。「どこにそんな接点が…」といぶかしんでいたら、そうでした。折々に旦那から聞いていた「少年時代の思い出話」が、本書のあれやこれやのエピソードと妙にそっくり!
たとえば、恐怖の「子供がえ」の話とか。

ある休日のひる。
母「さー今日はころもがえしようっと」
ふとふりむくと、お兄ちゃんはしくしくと泣いており、
弟は楽しそうにリュックにおもちゃをつめている。
どうやら「ころもがえ」を「子供がえ」と聞きまちがえたらしい。
母「どこにもやらないわよー」
弟「やだ、ぼくしんちゃんちの子になるー」
日ごろかわいがられてばかりの要領のいい弟の、黒い一面を見た日であった。
幼いころ、旦那もこれとまったく同じ聞きまちがいをして、「これからどうなるんかなあ、と思ってワクワクしてた」んだとか。こういう空耳って、「息子たち」の間ではけっこう全国区の現象で、もはや古典的なオチだったりするのかもしれない。

そういえば、娘二人しか持っていなかったはずのうちの両親も、時々「異次元」に迷い込んだような顔をしていたような…。

時代を超えてつながる(?)親たちの「こども"異次元"体験」の奥深さに、何だかしみじみさせられるものさえあるのだった。
posted by ふらら at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月29日

三年寝たろうと母のこと

Book 004.jpg
紙のお月さま紙のお月さま
今江 祥智 長 新太

理論社 1985-11
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あるとき母に誘われて、今江祥智という童話作家の講演会に出かけた。
小学校教諭をしていた母の教育のたまものか、『ポケットにいっぱい』『海いろの部屋』『山のむこうは青い海だった』など、数々の名作に触れながら育った私にとって、今江さんはちょっとしたスターだった。なにしろ子供の頃に好きだった本の作者なのだから、もう相当なお年なのかと予想していたら、思いがけず若々しい印象の朗らかなおじさんが現れて、図書室に勤めながら童話を書き始めたころのエピソードや、「三年寝たろう」的存在の必要性などを語って下さった。

「三年寝たろう」うんぬんについては、うろ覚えの部分もあるのだけれど、確かこんな話だったように記憶している。世の中には、あまり実生活には役に立たないことにばかり関心があって、のほほんと暮らしている人種がいる。けれど、実はそうしたエアポケットのような存在を、社会の方でも必要としているんじゃないか。逆に、そうした「寝たろう」的存在を許せなくなった社会というのは、余裕がなくなって、何だかぎすぎすしてしまうんじゃないか…

ふと横を見ると、楽しげに「うん、うん」うなずきながら、今江さんの話に聞き入っている母がいた。続きを読む
posted by ふらら at 11:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 子ども・絵本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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